農地を守るとはどういうことか-家族農業と農地制度その過去・現在・未来

チンパンジー

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その19

楜澤能生(くるみさわよしき)著、2016年3月、一般社団法人農山漁村文化協会、1,870円

農地法について、その制定から今日に至る歴史を分かり易く解説し、現在の農地中間管理機構が抱える問題点を鋭く指摘する。集落営農、法人化を考える際に必須の農地について、今一度勉強したい人におススメの本です。
著者の略歴は、「1954年、大阪府生まれ。早稲田大学大学院法学研究科博士課程中退、1992年早稲田大学法学部教授、2012年早稲田大学比較法研究所所長、2014年早稲田大学法学部長・法学学術院長(現職)。」(奥付より)

例によって、印象に残った記述を抜粋しておきます。

「農地は、法律上誰でも購入することができるものではなく、一定の要件を満たす者だけがその取得を許される。なぜだろうか。
ヒト、モノ、カネの自由な移動、流通を旨とする自由経済社会において、農地を特別扱いするのはおかしいのではないか、モノの効率的生産を得意とする一般企業法人にも自由に農地を取得させれば、もっと安く農産物を市場に供給できるはずだ、誰もが自由に農地を買うことができるように法律を変えて、市場競争の原理を農業の現場に導入すべきだ、このような主張がますます強まってきている。
一見するときわめて分かりやすい議論である。消費者にとっては国産の農産物が安く手に入るのだったら、大変結構なことに違いない。都市に多くの読者をもつマスコミも、消費者のこの心理を付度し、農地制度を、農水省の既得権益や、農業団体ならびに小農家の私的利益を守るだけの不合理な規制だと批判し、その緩和・撤廃を後押しする。農地制度は四面楚歌の様相を呈しているようである。現に2009年、誰もが農地を借りることができるように農地法が改正された。賃借権での農業経営が自由なのに、なぜ所有権に基づく経営は許されないのかという疑問、批判が出てきて、早晩、売買の自由化へ向けた法改正案が国会に提出されることになろう。
しかし分かりやすい議論は、まず疑ってかかる必要がある。小著で私は、これまで農地法が農地の自由な売買や賃貸借を規制してきたのはなぜか、という問いに歴史を振り返りながら答えてみたいと思う。農地の取引に対する規制は、これまで日本人が農地について積み重ねてきた百年の経験の帰結であり、それ相応の重い歴史と理由をもつからだ。規制を撤廃せよとする主張には、この歴史への眼差しが欠けている。」(はじめに、P1~2)

「面積要件という外形的基準に代わって、農作業常時従事者という各人に適用される人的要件を基準として権利取得の是非を決定することになったのである。この改正作業にかかわった関谷俊作の表現を借りれば、農作業常時従事要件は、格利取得者の全人的生活スタイルにかかわる要件であり、農地の権利取得を認めるか否かが、農作業への常時従事という人の生き方にかかっている、ということである(関谷2004、268頁)。農作業に常時従事するには、農地の近傍に居住しなければならない。生産に従事する場が同時に生活の場であるという、生産と生活の一体性が求められたといってもよい。」(Ⅷ耕作者主義:農地の権利主体の生活スタイルに着目、P60)

「社会転換のシナリオづくりに真剣に取り組んできたドイツは、1992年の 「環境と開発に関する国際連合会議」(リオ会議)の準備として、政府内部に「ドイツ連邦政府地球気候変動研究者諮間委員会」を設置し、主として脱炭素化社会への移行について検討を重ねてきた。この委員会は既に数次にわたって答申書を出しているが、福島原発事故直後に報告書「変化する世界一大転換のための社会契約」をまとめ政策立案者に提出した。報告書は、これまで人は三度の社会的大転換を経験してきたと指摘する。最初の転換は人類が農耕と牧畜を発見し広めた新石器革命であり、二度目は、カール・ポランニーが『大転換』(1944)のなかで描写した農業社会から産業社会への移行、産業革命であり、そして三度目が、いま私たちが直面している産業社会から持続可能な社会への大転換である。この三度目の転換は、従来の転換と比較して大きな違いがある。これまでの転換は、人間の制御によらない長期にわたる進化過程の帰結であったのに対し、私たちが直面する転換は、認識と深慮と将来への配慮を働かせて、包括的な改造を意識的計画的に推し進めなければ達成されることはない。」(Ⅺ持続可能社会への大転換と農地制度、P87)

「農林地取引法は、そのような農業経営の育成を前提とした農業構造改善措置に反する農地取得の排除を、自らの使命とすることになろう。自然環境の保護、景観保全には膨大なコストがかかる。技術的費用的に考量しても、これらの課題は、専業・兼業農業経営の存続によってのみ実現される。その意味で土地利用型の農業経営を、農地制度を通じて維持することは、高次に位置づけられる公共性をもつことになる。このように変化に応じた新たな農業構造像に不適合な取引を規制し続けることが、法の使命となる。経営規模の拡大による生産性向上に代わって、自然に配慮した持続的生産が農政上の新たな農業構造像となれば、これに矛盾する農林地取引が排除される。農林地取引法は、常に農業構造改善にとって不可欠の機能を果たし続けるのである。法が寄与する中身は変化する。変わらないのは、増産できない稀少財としての農林地を、時代に応じて変化する視座から、自由な市場取引に乗せないという機能なのである。」(Ⅻ農地の自由な取引を規制しているのは日本だけ?、P120)

「「農地中間管理事業の推進に関する法律」(以下、中間管理事業法と略記)が公布され(2013年)、同事業が動き出した。これは各県にーつ農地中間管理機構(以下、機構と略記)を設置し、機構が農地を賃借して中間管理をし担い手としての農業者へ転貸することにより、経営の規模拡大、農地の集団化、新規参入の促進を図るというものである。中間管理事業法の制定過程の綱引きにおいても集落の農地管理を否定する議論が強く出されてきた。規制改革会議や、産業競争力会議・農業分科会は、「農地は『集落のもの』という考えを乗り越え、競争力のある者に優先的に貸し出す仕組みとすべき」とか、「農業委員会の関与しない仕組みとすべき」といった意見から明らかなように、集落による農地の自主管理は、農業参入への自由競争秩序を排除しゆがめるものという認識の下で、機構が集積した農地を、機構が定めた利用配分計画にしたがって最も競争力のある全国の一般企業法人に転貸すべきだとした。
他方農水省は、「人・農地プラン」を実現するために活用できる一手段として中間管理事業を位置づけようとした。その限りで機構の運用によっては中間管理事業を、現行農地法制の体系の中で従来から積み上げられてきた政策の下に収めることが可能であろう。しかし法律上は機構が、集落や農業委員会による農地の自主管理を否定し、不動産業者が仲介する全国農地賃貸借市場の形成を促進する農用地配分計画の決定方法を定めることもまた可能なのである
機構が取得する権利は、基盤強化法上の農用地利用集積計画による利用権を排除しない、というより実際にはこの利用権が中心となる。しかしこの瞬間、制度上の矛盾が生ずる。既に述べたように、利用権は、実質上事前調整の中で農業者の合意を通じて中身が形成され、形式上市町村が実施主体となる農用地利用集積計画、利用権設定等集積事業、すなわちと農地の自主管理と一体のものである。ところが中間管理事業という、全国どこに所在地があるかに拘わらず競争力のある法人企業を利用権の配分先に指定することを排除しない、内容も主体も法律も違う事業がこの利用権に接合されるのは、制度上の矛盾という他はない。農業生産の担い手が同時に生活者として農村社会の担い手でもあり、地域の自然資源の管理主体でもあるという視点を欠落させる運用がなされれば、信頼関係の中で形成されている農地賃貸借市場に大きな混乱をもたらすのみならず、早晩農村社会は、生産手段としての農地だけが限定期間残存する空間に変貌するであろう。」(ⅩⅣ企業の農業参入要求と農地法制の改変、P141~142)

「「耕作者主義」と、地域農業・社会を共同で構築するシステムとしての「農地の自主管理」は、持続可能な農業を展望する上で不可欠の法原則といわなければならない。歴史の中で時間をかけて形成されてきた農地所有権という所有権の構成は、持続可能社会への転換という文脈において、例えば都市の土地所有、企業所有などのあり方に大きな示唆を与えるものとなろう。」(おわりに、P144)

「市場がグローバルに拡大、暴走し、金融危機や経済危機を引き起こし、貧困、格差、地球環境問題を発生させた。離陸した経済を再びコミュニティーや自然に着陸させ、分断された人間と自然と社会の一体性を回復することが喫緊の課題である(以上につき、広井 2015、77頁以下)。農地法制の歴史は、いったん農家やむらから離陸させられた農地(地主的土地所有権)を再び農家やむらに着陸させる(農民的農地所有権)歴史だった。ところがその農地所有権を否定してこれを所有権一般に戻そう、農地を商品一般に解消しよう、農地所有者を一般法人に開放しようという「平成の農地改革」断行がますます声高となっている。戦前の法原則へ回帰し、農村の自然と社会に組み込まれた農地を、またしてもそこから切り離し、離陸させようという主張である。加えて耕作放棄地が増大しているのは、 一般企業法人に農地をもたせない農地法があるからだとして、今日の日本農業の不振の原因を農地制度に転嫁する議論が横行する。農民土地法の自作者原則により企業の農地取得を排除しているスイスに耕作放棄地がないことを見れば、この種の議論が的を射ていないことは明白だろう。」(おわりに、P145)

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