荏開津典生・鈴木宣弘著『農業経済学第5版(岩波テキストブックス)』2020年3月2日、岩波書店、2,400円+税

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その37

チンパンジーは、(全中在職時代に)荏開津先生に農家経済予測のモデル作成をお願いし、ご指導いただいたことが今では隠れた宝となっている。先生の深い知識と飾らないお人柄に魅かれた。しっかりとした哲学をお持ちの方であり、次のような記述に接するとき、職業生活の後半で経営指導関係へ仕事の重点が移ったために疎遠になったが、もっとご指導いただければ良かったと後悔しきり。
「農業経済学者が、自己の個人的選好にもとづく政策を農業経済学の権威において提言するとすれば、それは道理にはずれた行為である。社会厚生上の選択はあくまで1人1票の多数決によるべきであって、農業経済の理論と農業の実態についての知識の多寡は無関係である。・・・(中略)・・・農業政策上の選択が社会厚生を高める賢明な選択であるためには、なによりもまず農業・農村がいまどうなっているかという実態的知識と、ある政策の実施が何をもたらすかという政策効果分析とが必要である…(中略)・・・農業・農村の多面的機能というような問題は、事実認識と価値判断とが交錯しやすいきわめてデリケートな領域である。農業経済学を学ぶ者がこのような領域に踏み込むには、それにふさわしい鋭敏かつ堅牢なコンパスを持つことが必要である。」((終章農業政策と農業経済学、P229~231)
荏開津先生と新世紀JA研究会のホームページへの投稿でお馴染みの鈴木先生のプロフィールは、次の通り(奥付より)。
荏開津典生(えがいつふみお)
「1935年生まれ。59年東京大学農学部農業経済学科卒業。東京大学・千葉経済大学名誉教授。農学博士。主な著作に『日本農業の経済分析』(大明堂、1985年)、『「飢餓」と「飽食」』(講談社選書メチエ、1994年)、『フードシステムの経済学第6版』(共著、医歯薬出版、2019年)がある。)
鈴木宣弘(すずきのぶひろ)
「1958年生まれ。82年東京大学農学部農業経済学科卒業。東京大学大学院農学生命科学研究科教授。農学博士。主な著作に、New Empirical Industrial Organization and Food System(共編著、Peter Lang Publishing,、2006)、『食の戦争』(文春新書,2013年)、『TPPで暮らしはどうなる?』(共著、岩波ブックレット、2013年)、『悪夢の食卓』(KADOKAWA、2016年)がある。」
いつものように、チンパンジーがお気に入りの箇所を引用して紹介に代えます。
「小麦や米の生産では、まず農地を耕し、種を播き、肥料や水を与え、除草し、病気や害虫を防除し、結実を待って収穫する。これが昔から世界のどこでも行われているやり方である。
穀物生産のこうした過程は2つの側面を持っている。1つは、種子が発芽し、成長して結実するという側面である。これは基本的には生物学的な過程だが、その過程で肥料や農薬などが重要な役割を果たすので、生物学・化学的過程と考えるのが普通である。生物学(Biology)と化学(Chemistry)のBとCをとって農業生産のこの側面をBC過程ないしBC技術と呼ぶことができる。
もう1つは、トラクターで土地を耕したりコンバインで収穫したりする側面である。これは基本的には力学ないし機械学的な過程である。この側面は 機械学(Mechanics) の MをとってM過程,M技術と呼ぶことができる。
もちろん、実際にはこの2つの側面が密接に結びついて農業生産が行われている。しかし、土地・労働・資本という3つの本源的生産要素と肥料や農薬などの中間投入要素との間の複雑な技術的関係を理解するためには、BC過程とM過程とを分けて考える方が便利である。
BC過程とM過程の間の大きな相違は、BC過程は基本的に農場の規模(面積)と無関係であるのに対し,M過程は農場の規模と密接に関係しているということである。種子が発芽し、肥料を吸収して成長し結実する過程は、1平方メートルの土地でも1ヘクタールの土地でも同じである。だから1平方メートルの土地で起こっていることを1万倍すれば,ほぼそれが1ヘクタールの土地のBC過程になると考えてよい。
一方機械が中心となるM過程ではそうはならない。1ヘクタールの農場を耕すのに用いられるトラクターで、1平方メートルの土地を耕すことは不可能である。200ヘクタールを超えるカリフォルニアの大規模稲作農場では、軽飛行機で種を播いたり肥料を散布したりすることができるけれども、1ヘクタールの半分にもならない零細な水田で米を作っている日本や韓国の農家では、それは全く無理である。
ミクロ経済学の用語で表現すると、BC過程は分割可能(divisible) であり、M過程は分割不可能(indivisible) である。農地そのものは完全に分割可能だが、BC過程で用いられる種子,肥料,農薬,水などの要素がすべて最小単位までに分割できるのに対して,M過程の中心的な役割を果たす機械は分割することができないからである。たとえば100ヘクタールの農場で耕耘や収穫を効率的に行うように作られた大型のトラクターやコンバインは,1ヘクタールや2ヘクタールの農場では充分に能力を発揮できない。零細な農場で使うには小型のトラクターの方が使いやすいし、大型トラクターよりも効率性はむしろ高い。もっと「小さな山間の水田になると、鍬や耕し鎌で刈り入れることしかできなくなる。
BC過程を経済学的に分析するときには,農場の規模という要因を無視してもほとんどさしつかえない。1ヘクタールの耕地を想定して考えれば,それがほぽそのまま10ヘクタールの農場にも100ヘクタールの農場にもあてはまる。それはもちろん1つの「単純化」で、実際にはBC過程も農場の規模と全く無関係ではないことを忘れてはならないが、分析を進める上でこのような単純化はしばしば必要であり、また役にも立つのである。BC過程の技術の基本問題は、以下で説明するように収穫逓減の法則である。
これに対して、M過程を経済学的に分析するときには、農場の規模が決定的に重要な要因となる。農場の規模によって使用可能な農業機械が異なり、その結果、生産費用にも差がでてくるからである。M過程の技術の基本問題は規模の経済性である。」(第4章農業生産と土地 P45~47)
「農業生産者を対象とする直接支払いは、どのような理由で正当化されるであろうか。これは簡単な問題ではないけれども、現在最も広く起用されているのは、農業・農村の多面的機能(multifunctionality) に対する報酬として支払いを行うべきという見解である。
では農業・農村の多面的機能とは何か。この用語は、農業交渉の公的な用語しては1998年の0ECD農業大臣会合において導入されたもので、会合コミュニケの中で「農業活動が・・・景観を形成し、国土保全、再生可能な天然資源の持続的管理、生物多様性の保全といった環境便益を提供し、多くの農村地域の社会経済的な存続に貢献し得る」と表現されている。
この表現にも明らかなように、多面的機能は環境保全と深く結びついたアイデアである。環境問題については第11章で述べるが、農業保護政策との関連で、クロス・コンプライアンス(cross-compliance) についてここで簡単にふれておこう。
クロス・コンプライアンスとは,所得支持などの環境保全とは異なる目的を有する直接支払いを受け取る条件として、農業の環境に与える影響に関して一定の基準の遵守を求めることである。後で述べるように、農業生産活動はそのまま無条件で多面的機能を発揮するとはいえない。化学農薬や肥料の多用は、かえって環境を汚染することさえある。
所得支持を主たる目的とする直接支払いを正当化するためには,農業生産以外の面、つまり環境保全を中心とする多面的機能の面での社会への貢献が求められる。クロス・コンプライアンスはそれを確実なものとするための重要な政策ツールとなっているのである。」(第7章農産物貿易と農業保護政策、P110~111)
「現実的には、例えば減農薬栽培を例にとると、農薬使用を減らすのは汚染者負担原則の観点から農家が当然やるべきことという見力がある一方で、自然条件に依拠する農業では大幅な減農薬はそう簡単ではないことから、減農薬による環境や人の健康状態への貢献を農家による公益的機能の発揮とする見方もある。そこで問題となるのは、「汚染者負担原則の適用」と「公益的機能の発揮」の境界をどこに設定するかである。
そこでEUなどでは、現在の技術水準からみて、当然このくらいまでは農家の自己責任で達成すべき農法(例えば施肥体系)というものを基準として設定(この基準を一般的にはレファランスレベル(reference level)と呼称する)して、そこまでは自己責任で達成しないと農家は所得支持などを目的とする直接支払いを受けられなくなるという形で一種の義務(クロス・コンプライアンスと呼ぶ)とし、それを上回る環境に配慮した努力に対しては環境への貢献そのものを評価し、その農法遂行に必要な追加的費用や所得減少分を補助金として支給する(環境支払い)というような政策体系が採用されている。このような政策体系のもとで、所得支持のための直接支払いを受給する農地での農業生産活動がもたらす環境水準を、レファランスレベルにそろえることが可能となり、そのことが適切な多面的機能の発揮を下支えすることとなる。
化学肥料・農薬を使用せず,遺伝子組換え技術なども使用しない有機農業や、化学肥料・農薬の使用量を減らしたり、耕起栽培を取り入れるなどして、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業を環境保全型農業と総称する場合もある。このような農業生産の方法に対比して、現在一般的に行われている(例えば一般的に普及している通常の施肥体系に基づく)農業を慣行農業(conventional farming)と呼ぶ用語法も広く使われている。」(第11章資源・環境と農業、P181~182)
「市場メカニズムも、民主主義の政治のメカニズムと同じく、人間の生活に関する社会的選択ないし決定のための仕組みである。民主主義における政治的決定の原則が1人1票であることになぞらえていえば、市場における経済的決定の原則は1ドル1票である。これまでしばしば、市場は民主主義の一部であると述べてきたのは、1人1票の原則の方が1ドル1票の原則よりも上位にあり、市場のメカニズムは民主主義によって容認される範囲内で動いているのだという考えを示している。
民主主義の一部としての市場においては、参加者の全員に、最低限の生活を可能にするだけのドルを持つことが保障されていなければならない。もし市場自体にそれを保障する能力がなければ、それを補うのは政策の責任である。」(第11章資源・環境と農業、P184~185)
「農業における資源・環境問題は、他の産業とは決定的に異なる面を持っている。それは、農業の主要な生産手段である農地それ自体が、自然資源であり人間の生活環境でもあるということである。
もちろん,農用地は自然そのままの上地ではない。特に穀物や野菜が栽培される耕地は、 自然の土地の上に長年にわたる人間の投入が加えられた土地資本(land capital)である。濯概用のダムや用排水路、農業機械のアクセスのための農道などの固定資本がともなってはじめて、土地は農業の生産要素としての農地になるのである。数百年を超える長い間に、現在の農地には莫大な資本が投下されている。
しかしながら、イギリスの経済学者デイビッド・リカードが述べたように、農業の生産力がその根本において「土地の本源的で減耗することのない力(the original and indestructible power of soil)」に依存しているという事実は、現在でも変わってはいない。
農地から生産される穀物の本体は、空気中の二酸化炭素が固定された炭水化物である。空気中の二酸化炭素を炭水化物に変化させるプロセスは光合成であるが、誰でも知っているように、光合成を行う基本的な力は太陽のエネルギーである。純粋に技術的な観点からすれば、農業生産への労働、資本、肥料などの投入は、太陽ェネルギーの作用を補助するに過ぎない。
農業で生産される植物の全体を、根や茎をも含めてバイオマス(biomass)と呼ぶ。バイオマスの量は、重量でも測られるが、その本体は固定された炭素の量である。そしてバイオマスを構成する炭素は、空気中の二酸化炭素が光合成によって姿を変えたものなのである。
このように考えると、農業の生産要素としての農地の本体は、それがたとえ莫大な資本を合体した土地資本であったとしても、太陽のエネルギーを受けとるために地表に広がった土地そのものであることが理解される。この広大な土地は、自然資源以外の何ものでもない。そして光合成を行う能力は、太陽ェネルギーが不滅である限り不滅である。」(第11章資源・環境と農業、P186~187)
「日本の農業生産基盤では、農地とともに用排水路と農道とが重要な要素となっており、それらの多くは伝統的に集落を単位とする農家の自主的共同作業によって維持されてきた。また1949年に成立した土地改良法にもとづいて、農民組合の一種である土地改良区がそれを担っている地域もある。この土地改良区も、集落を基礎とする農家の組織である。
しかし過疎化の進行や農村人口の高齢化によって、このような集落機能はしだいに低下せざるを得なくなった。また農村に都市への通勤者が居住する混住化(非農家率の高い農村の増加)の進行も、住民が一体となった共同作業が困難となる上に、非農家による農道や農業用排水路の汚染の問題も生じて、集落機能低下の大きな要因となっている。
(中略)
2015年「国勢調査」によれば、総人口に占める65歳以上の人口割合(高齢化率)は、全国平均26.6%に対し、郡部では31.0%となっている。農村地域の高齢化の進行は、最後には集落の無人化・消滅に至る。あるいは都市に近ければ混住化が進み、居住者に占める農家の割合が圧倒的に小さくなると、もはや統計上の「農業集落」ではなくなる。」(第12章日本の農業と食料、P222)
「社会のあり力がその社会を構成する人々にとって望ましいかどうかの評価を社会厚生(social welfare)という。これは主として経済学で用いられる用語であるが、社会厚生の水準を決めるのはもちろん経済的要因だけではない。
社会厚生についてはさまざまな考え方があるが、社会厚生を高める最善の仕組みは市場経済をその一部として含む民主主義であるというのが、これまでもたびたび述べたように、20世紀に至る人類史が多くの犠牲をはらって到達した経験的結論である。そして民主主義の社会厚生に関する基本的理念は、社会厚生の基礎をなすのはその社会のメンバーである個々の人間の幸福(happiness)ないし効用(utility)であるという思想である。
ところで,人間の幸福には2つの側面がある。1つはその人問の生活実態であり、もう1つはその人間の選好(preference) にもとづく価値判断である。
さて,人問の生活実態は非常に多くの要因から成り立っている。衣食住をはじめ経済的要因が垂要であることはいうまでもないが、非経済的な、つまり市場で売買されない要因も決して無視できないことは、誰もが認める事実であろう。人間の生活の全体は経済の範囲にとどまらず、それよりもはるかに広い。したがって幸福の決定要因は多元的である。
社会厚生は個人の’幸福に依存する。幸福が多元的であれば、社会厚生もまた多元的である。社会生活の望ましさが、経済的な豊かさに基礎をおきながらも、経済の範囲を超えて人問の生活にかかわるすべての要因をふくむ多元的な問題であること、これも多くの人にとって自明の道理であろう。
先に第7章で農業貿易交渉に関連して説明した農業・農村の多面的機能という理念の根底をなしているのは このような意味での社会厚生の多元性である。農業・農村と人間の生活とのかかわり、したがって人間の幸福とのかかわりは多元的であり、農業 農村の社会厚生への貢献は決して農産物の商品価値だけではないという思想である。
問題は、社会生活の実態をなしている多元的要因のどのようなあり力が、社会厚生上最も望ましいかを判断し選択することである。社会生活の実態と社会厚生との関係は個々人の選好にもとづく主観的判断であり、社会厚生ヒの最適点を知る客観的手段は存在しない。
1人1票の投票によって最適点を選択するという民主主義のルールは、いわば便宜的な手段の1つである。しかしそれがともかくも現在知られている最善の手段であるというのが,20世紀の歴史が残した結論なのである。
(社会厚生の制約条件)
社会生活実態の望ましいあり方について選択するといっても、それはさまざまな条件に制限されたなかでの選択である。まず第1に、それは技術的な実現可能性(physical feasibility)によって限定されている。たとえば、現在の日本人の食生活のあり方をそのままにして食料自給率を60%に上げることは、技術的に実現不可能であり、 したがって選択の範囲に入らない。日本の耕地面積は年々減少しており拡大の余地はほとんどないが、農林水産省による2007年時点の推計によれば、日本が輸入している食料を生産するのに必要な耕地面積は、一部の主要な穀物、畜産物、油糧種子だけでも1245万ヘクタール、これは国 内耕地面積の3倍に近い農地を海外に依存しているということになる。
第2に、日本の農業政策はWT0農業協定の制約下にあり、またいずれ決着するであろうドーハ・ラウンド農業交渉の合意事項にも従わなければならない。これは技術的制約に対して社会的制約である」(終章農業政策と農業経済学、P227~228)
「農業経済学の観点からとりわけ重要なのは、経済的価値と非経済的価値との間のトレード・オフである。このトレード・オフは農業だけの問題ではない。しかし農業は他の産業部門よりも厳しくこのトレード・オフに制約されている。すでに本書の各章で述べたが、農業が絶対的必需品である食料を生産するほとんど唯一の産業であること、および全地表面積の33%という広大な土地を生産要素として使用し、都市的世界とは異なる農業的世界を形成していることが、その基本的原因である。市場メカニズムの活用によって農業経済の効率を高めることが、はたして社会厚生の他の要因にマイナスにならないかどうか、農業は市場経済の一部門であるが、農業政策について考察するに当たっては、この点に充分配慮しなければならない。
(市場と政策)
経済的な豊かさだけが社会厚生を高めるものではないが、経済が社会厚生の非常に重要な要因であることは明らかである。そして、自由な取引を基本とする市場メカニズムが経済効率を高める最善の制度であるということもまた、20世紀の歴史が残した貴重な教訓であった。
農業経済もまた,その効率を高めるためには市場メカニズムを最大限に活用しなければならない。しかしまた、市場メカニズムは万能の制度ではなく、適切な政策的コントロールなしには社会厚生にとってマイナスの作用を及ぽすということも、20世紀の重要な歴史的経験である。
第二次世界大戦中に制定された食管法が1995年まで廃止されず、日本の米経済に統制的要素を多く残したことは、今に至ってもなお日本の米経済に無用の混乱と非効率とをもたらしている。
逆に土地の効率的利用に不可欠と思われる適切な制度的市場介入がなかったために,農村の土地利用秩序の混乱であるスプロール(sprawl)がもたらされた。
現在の日本の農村景観が、とりわけ土地利用計画に規制されたョーロッパの農村にくらべて必ずしも美しいとはいえないのは、残念ながら事実である。
農業経済においても、市場メカニズムと政策的介入との間に適切なバランスを求めるのが、社会厚生を高める最善の手段である。
(農業経済学の役割)
農業政策の選択も社会厚生上の選択の1つであり、それは原理上経済学の役割ではなく政治の役割である。では、農業経済学は農業政策とは無関係だろうか。
農業経済学者が、自己の個人的選好にもとづく政策を農業経済学の権威において提言するとすれば、それは道理にはずれた行為である。社会厚生上の選択はあくまで1人1票の多数決によるべきであって、農業経済の理論と農業の実態についての知識の多寡は無関係である。
しかし実際には、農業政策決定と農業経済学とは切り離し難く結びついているし、また結びついていなければ農業経済学の存在意義はない。なぜならば、農業政策上の選択が社会厚生を高める賢明な選択であるためには、なによりもまず農業・農村がいまどうなっているかという実態的知識と、ある政策の実施が何をもたらすかという政策効果分析とが必要であるが、これこそが農業経済学の研究対象だからである。
農業と農村の現状に関する着実な実態把握も、政策のもたらす効果の精確な分析も、経済学の理論と方法とを用いた体系的研究なしには誰も手に入れることができない。またそれは、長い年月にわたって蓄積された先人の研究を継承 しその上に1歩を進めるという学問の発展なしには獲得できない知識である。
農業・農村の実態把握も農業政策の効果分析も、いずれも事実認識の問題であって価値判断ではない。とはいうものの、事実認識と価値判断の境界は完全に黒白に区分されるものではなく、広いグレイ・ゾーンがあると考えるべきである。例えば農業・農村の多面的機能というような問題は、事実認識と価値判断とが交錯しやすいきわめてデリケートな領域である。農業経済学を学ぶ者がこのような領域に踏み込むには、それにふさわしい鋭敏かつ堅牢なコンパスを持つことが必要である。」((終章農業政策と農業経済学、P229~231)