杉山透編『鱒釣り アメリカ釣りエッセイ集』1983年11月5日、朔風社、278頁、2,060円
「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その136
杉山透編『鱒釣り アメリカ釣りエッセイ集』1983年11月5日、朔風社、278頁、2,060円
読み応えのある良い本でした。釣りをしない人でも山と川のある風景が好きな人なら、自然に読めると思います。
カバー帯の謳い文句が笑えますよ。今や女性も男性に交じって釣りをする時代ですから。
「これがフライフィッシングだ!今世紀アメリカの代表的フライフィッシャー13人が高らかに謳いあげた“男たちの愉しみの世界”」(カバー帯より)13人の中には、あのアメリカ大統領のジミー・カーター氏のエッセイも入っていますが、お上手ですね。
「夕刊フジ評…「アメリカの大地のにおいと広大な自然があふれており,フライ・ファンでなくとも思わず引き込まれる」
Angling誌評…「登場する13人のフライフィッシャーはいずれも,この釣りに関する並みはずれた知識があるだけでなく,釣りに人生観を持った,優れた人ばかり」
Outdoor誌評…「FFマン必読の書」ほか各紙誌絶賛」(カバー帯より)
帯のみならず、カバーにも謳い文句があって笑えます。
「アメリカのこの狂熱の釣り人たちを見よ!鱒釣りの魅力と魔力を語りつくした不朽の名エッセイ13篇。雨の日、冬の日、そして釣れぬ日の釣り人にささげる。」
気に入った所を何カ所か抜粋しておきますね。
「釣りが他のことと決定的に異なる点は、そこに長い沈黙―何ものも生みださない時の流れがあることだ。それは、狩猟・釣り雑誌が煽りたてる大量捕獲主義からすれば全く魅力ないものかもしれないが、釣りに熱情を傾ける人は、むしろそうした生産的でない釣りのあり方に自分が近づくことを進歩とみなすものである。その種の雑誌が“片っ端から釣りまくる”などという幻想をいくらふりまいたとしても、進歩を目指す釣り人は、しまいにはうんざりして目を覆いたくなり、やがて、愚かしい大量殺戮、すなわち、大口を開けた魚を数珠つなぎに紐に吊すよりな真似をして得意がる俗物名人に対し、常におぞましさを覚えるようになるのだ。」(トーマス・マグェーン著、成澤恒人訳「最も長い沈黙」、221頁)
「釣りはスポーツであるとよく言われるが、それは誤った考え方だ。少なくとも釣りは競技にはならない。釣りの競技会とかトーナメントとか多く催されているが、的外れなことではあるまいか。他の釣り人と面と向かって戦うわけではないし、違った場所にいる釣り人はまた違った規準に従っているものだ。それに事実を多少拡大解釈することが釣り人のいかにも釣り入らしいところであってみれば、客観性というようなことは釣りの「花」を萎らせてしまいかねない。誰が最高の釣り人であるか、そんなことはどうでもよいことだ。決めようとしたって決めようもないことだ。肝腎なのは釣りという実際の行為であって、その点をよく承知した釣り人なら釣りを競技化しようとする試みにはそっぽを向いてしまうだろう。いわゆる釣りの「専門家」には鼻白む思いがするものだ。
「真剣勝負」の釣りという抽象観念に化かされた人は意外に多いのだが、虚構や運や流言 にょって「名人」になって一体何が面白いのだろう。
よく釣りとゴルフが並べて語られるが、両者の本質はかけ離れている。釣りにおけるホ ールは食欲を持ち、グリーンやコースによって千差万別の気質を持った生き物なのだ。ただ芸もなく水の中に開いている穴ではない。
釣り人というゴルファーは一つのホールに対してはマグレガー・ターニーのボールを使 い、またあるホールにはタイトレストを、また別のホールにはダンロップ・マックスフラ イを使う。そしていかに力量のあるゴルファーが打ったボールでも、釣りのホールはそれ を横目で胡散臭そうに眺めて、ころがってくるボールの進路からすいと逃げていってしま う。それが何ともしばしば起こるのだ。逆に全くの初心者が打ったラフヘのひょろひょろ 球でも、ホールのほうから突進してきてボールを漁り回り、かくしてホール・イン・ワンになることもあり得る。そうかと思えばパミットのようなお墨つきの難ホールばかり狙って美学と苦行にいそしむゴルファーたちもいる。
フライフィッシングの領域には技術的に見て幾つかの高峰があり、それが種々の神話を生む母体になっている。確かにフライフィッシングの達人ということになると、同程度に高度な技術を要するスポーツの達人よりもずっと数が少ない。だがこれは一つには報酬の違いが壁になっているためもあろう。釣りの報酬は自分で釣り上げた分だけだ。仮に2、30万ドルの懸賞金の懸かった釣り大会が開催されるようにでもなれば、必ずや何人かの釣りの「鬼」がトーナメントへ名のり出てくるものと思われる。」(ラッセル・チャム著、谷阿休訳「この釣り人を見よ」257~259頁)