日本農業新聞編『協同の系譜 農の未来を拓いたりーダーたち』2024年5月8日、286頁、2,200円

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その138

日本農業新聞編『協同の系譜 農の未来を拓いたりーダーたち』2024年5月8日、286頁、2,200円

知ってはいるが、詳細をよく知らないリーダーの姿を知ることができました。日本農業新聞に連載されており、読んだ記憶はあるのですが、通して読むことによってよく知ることができましたよ。
宮脇さんが意外と早逝だったのは、知りませんでした。
千石さんの産業組合的経済主義の実際に触れたのは。良かったですよ。カバー帯に、佐藤優氏(作家・元外務省主任分析官)が「国家の強権と資本主義の強欲に対抗するのが協同組合だ。弱肉強食の新自由主義を克服する道が『協同の系譜』にある。」と推薦していますよ。

日本農業新聞は、最近の活躍が凄いですね。JA全中がすべきことを代替してやっている感じがするのは、チンパンジーだけの勘違いでしょうかね。

筆者の略歴は、次の通り
「和田武広(わだ・たけひろ)
1953年生まれ。愛媛県伊予市出身。賀川豊彦記念松沢資料館嘱託講師。愛媛県共済農協連、JA共済連東日本引受センター長、JA共済損害調査㈱常勤監査役を経て現職。著書に『共済事業の源流をたずねて』(緑蔭書房)など。
須田勇治(すだ・ゆうじ)
1938年生まれ。群馬県沼田市出身。農政ジャーナリスト。日本農業新聞論説委員室長、農政ジャーナリストの会会長などを経て、千葉県立農業大学校非常勤講師。著書に『宮脇朝男の生きざま』(全国共同出版)など。
高宮英敏(たかみや・ひでとし)
1949年生まれ。北海道釧路市出身。酪農乳業ジャーナリスト。株式会社酪農乳業速報取締役北海道支社長、代表取締役社長を経て2021年会長兼社長退任。著書に『酪農共同経営の現場から』(北海道農協中央会、ホクレン農協連合会)、『北海道らくのう温故知新』(ホクレン農協連合会)など。
楠本雅弘(くすもと・まさひろ)
1941年生まれ。愛媛県宇和島市出身。農山村地域経済研究所所長・農山漁村文化協会会長。農林漁業金融公庫を経て、1987年から山形大学教養部・農学部教授。著書に『進化する集落営農~新しい『社会的協同経営体』と農協の役割~』(農山漁村文化協会)、『農山漁村経済更生運動と小平権一』(不二出版)など。
夏川周介(なつかわ・しゅうすけ)
1945年生まれ。滋賀県彦根市出身。 JA長野厚生連佐久総合病院名誉院長。同院研修医、外科医長、副院長を経て、2003年院長就任。2013年より現職。」(奥付より)

幾つか抜粋しておきます。
「米国で出版された『Three Trumpets Sound(1939年)は、カガワ、ガンジー、シュバイツァーの「三人の聖人」が、世界の曲がり角でトランペットを吹いて新しい社会の指標を与えてくれるという内容だった。ロサンゼルスにはカガワーストリートができ、ワシントン大聖堂に賀川の等身像が安置された。欧米各地での賀川の伝道講演は、多くの聴衆を魅了・熱狂させた。
 賀川が数多くの社会事業や運動を展開するためには多額の資金を必要としたが、その資金源の一つは原稿料や印税だ。「ミリオンセラー作家」賀川は、『死線を越えて』をはじめとする著作活動による莫大な収益のほぼ全てを、救貧活動や労働・農民運動、協同組合、教育事業などに投じた。」(第1章 共済の父 賀川豊彦、25頁)

「1960年代の農協経済組織の最大の課題は、購買事業を扱う全国購買農協連合会(全購連)と販売事業を扱う全国販売農協連合会(全販連)の合併問題であった。
 両連の合併問題は1956(昭和31)年に関東・東北・北海道地区経済連会長会議で提起され、1957(昭和32)年の全購連総会で「全購連・全販連の合併を促進する」と決議した。全購・全販合併問題調査委員会が設けられ協議したが、1963(昭和38)年に「今後とも引き続き努力する」となり、進展しなかった。
 宮脇は全販連専務を経験し、その後も全購連理事と常に両連の役員であり、両連の事業内容に精通していた。両連の組織体・経営体の弱さを熟知し、焦燥感を持ち、合併の積極的推進論者であった。特に米の生産調整、自主流通米の登場などから経済事業の体質の強化が迫られていた。また、畜産インテグレーションのように大手商社、独占資本の農業進出が目立ち、巨大な商社資本に対抗するために販売・購買の一体的運営を強化しなければならないと危機感を強めていた。
 しかし、経営の厳しい全販連と、毎年多くの黒字を出す全購連では合併に対する意見の食い違いがあった。全販連は合併に積極的だが、全購連は消極的だった。当時、三橋誠全購連会長は「合併すれば人の面で事業が停滞する。人事交流で足踏みしていれば、メーカーや商社に対抗できなくなる。当面は両連の事業調整をやりながら進めていくべきで、合併をすぐというわけにいかない」と語っていた。
 これに対して宮脇は「県の販売連と購買連が一緒になって経済連が発足した時、ごたごたするだろうという危惧はあったが、問題なく今日に至っている。世間は非常に速いスピードで進んでいることを考えて対処しなければならない。両事業が有機的に連携しあって、一体的な力強い姿で機能発揮できる体制にしてもらいたい」と説得した。
 組織整備について宮脇は常に「事前の情報提供や組織討議が十分に行われていれば、怒濤のように強行実施すべきだ」と語っていた。その理由は「慎重審議の名を借りてゆっくり時間をかけていては、熱くなるより冷える方が早い。改革というのはどんな改革でも、誰かが地位や利益を失う仕事だ。時間をかけて丁寧にやっていれば、担当者の気持ちにためらいを起こさせるし、事務局の方は体より先に神経がまいってしまう」と説明していた。
 宮脇は1969(昭和44)年7月に全中会長に再選されると、両連合併を怒濤のように進めた。同年8月に全中の総合審議会に両連の合併を諮問し、1970(昭和45)年8月に「全購販の合併」の答申を受けると、同年10月の全国農協大会で「新連合会の発足を速やかに行うべきである」と決議した。1971(昭和46)年12月に合併契約調印、1972(昭和47)年3月30日に創立総会が開かれ、全農がスタートした。このように、強力な指導力の下に一連の手際良い進行は宮脇でなければ不可能であったろう。」(第2章 農協運動の先導者 宮脇朝男、60~61頁)

「千石の文章が人を引きつけ、強い説得力を持ち、多くの人々を動かしたのは、その平易さと事例を挙げて納得させる表現上の工夫の成果であった。平石は自著の扉に「これは総て組合員大衆に呼びかけた私の叫びだ」と書いている。
 千石が講演と執筆を積み重ねて練り上げた協同組合運動の理念と目標が「産業組合主義経済組織の建設」であり、産青連の50万の盟友はじめ圧倒的支持を受けて、運動の指針となった。
 その趣旨は次のように要約できる。
「中小の事業者や生活者が、資本主義の弊害から自らの暮らしを守り、福利を増進する道  は、協同組合主義に基づく経済組織を立ち上げることである。全町村に組合を設立し全戸の加人を目標に掲げる産組拡充運動は、その基礎を築く取り組みである。
 さらに進んで、都市の組合と農山漁村の組合、消費者の組合と生産者の組合、金融組合と事業組合、各種協同組合が連帯・共働の重層的ネットワークを形成することで協同主義経済システムが完成する。そうすれば資本主義を打倒するのではなく、協同主義セクターを作って資本主義から脱出できる」
 協同組合は単なる経済活動組織ではなく、社会改良を目指す運動体だと定置したことが、多くの生年たちの心をとらえ、共感・共有されたと考えられる。」(第4章 不世出の農民指導者 千石興太郎、191~192頁)

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