宍道太郎(福間莞爾)さんの投稿ページです。
協同組合論講座
第16回 協同組合と経済その2
イ、市場原理主義の是正
前述したように、市場で評価されない助け合い・ボランティアのサービスの価値を貨幣価値として評価して行くのも協同組合の役割だが、協同組合には市場に対するもう一つの役割がある。
それは、市場原理主義(市場万能主義)への警告と是正である。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が言うように市場は万能ではない。生きた人間の臓器がお金になるからといってこれを市場の要請に任せて売買すれば、公正な社会の構築に反し、また道徳の腐敗を招く。
サンデル教授の指摘を待つまでもなく、最近では市場原理主義の矛盾が益々増大している。第2次世界大戦後の米ソの冷戦状態は1990年の東西ドイツの統合、91年のソ連崩壊で終わりをつげ、その後のインターネットの普及とともにグローバル化が一挙に進展した。この動きに合わせ、米国を中心とする市場原理主義の考えによる、新自由主義の思想や政策が蔓延していった。
新自由主義の旗手は、ノーベル経済学賞を受賞した、アメリカシカゴ学派のミルトン・フリードマン(1912~2006年)である。フリードマンは経済成長にとって、国家が有効需要を創出するケインズ主義を批判し、経済はすべての面で自由であるべきと主張した。フリードマンによれば、人間が持つ自己保全という人間の本性の実現さえ、自由競争に任せればいいということになる。
軍隊は人間が持つ自己保全の究極の組織であり、それは専ら政府組織に委ねられるべきものだが、彼によればそれさえも自由であり、国防はカネで雇った傭兵に任せればいいということになる。
こうした競争を一義とする弊害は、米国発のリーマンショックに現れた。リーマンショックの原因は、米国のサブプライムローン問題であった。アメリカの証券会社や銀行は、信用力の弱い貸付債権(サブプライムローン)を証券化し、他の優良証券と混ぜ合わせて世界中にばらまき巨額の利益を得た。
一方でこうした証券に対する不信感から、世界は大きな信用不安・危機に陥った。このような事態を招いた道徳心やルールなき市場原理主義は、1%の富の集積と99%の貧困を招くとして米国本土でも反対運動が起きている。近年の世界的な新型コロナウイルス禍でも、無秩序な経済グローバル化の進展によってその被害が増幅する結果を招いている。
フリードマンの新自由主義の思想は、アメリカのリーガン大統領によるリーガノミックス、イギリスのサッチャー首相によるサッチャリズムとして政策として実行に移されたが、こうしたグローバル経済における新自由主義の弊害は、今日グローバルとは正反対の、自国優先のトランプ大統領のアメリカンフアースト、イギリスのEU離脱として見直しが迫られているのは、誠に象徴的な出来事と言っていい。
日本における、東日本大震災による放射能被害は明らかに人災によるものだった。原発は近代文明の申し子であり、効率性を第一義とする競争社会のもとで生まれた極めて危険なエネルギー装置であることが明確になった。
原発問題は経済合理性の考えによって処理されようとしているが、原発の安全性はもともと「経済合理性=市場における価値の実現」の問題とは距離を置いて考えなければならない問題である。それどころか、その後の事故処理状況を見ても、経済合理性の面からも原発は割に合うエネルギ―源とは言えない事態となっている。
ポラニーは、その著『大転換』において、ここで言う、交換経済による資本主義体制が、グロ-バル化の中で世界を席巻し、自然破壊や格差拡大など多くの問題を起こしていると分析し、こうした経済体制を「悪魔の碾き臼」と表現し、厳しく現在の資本主義体制を批判した。
ポラニーによれば、現在様々な問題を引き起こしている市場経済は、もともと古来人類の営みとして社会生活の中に埋め込まれていた。資本主義経済体制は、①互酬、②再配分、③交換という経済行為のうち、交換経済が社会から外部化し、僅か200年ばかり前から、異常に突出して誕生したものに過ぎないというのである。
資本主義経済批判としての「悪魔の碾き臼」というポラニーの表現は説得力があるが、一方で、もともと①互酬、②再配分、③交換という経済行為は人間社会の中に埋め込まれていたという認識は重要な指摘である。
ポラニーは、長い人類の歴史のうち、わずか200年余りでしかない資本主義体制で、人間社会から「交換」という形で外部化した市場経済の分野が異常に膨張し続けており、これはとても正常な人間社会のあり方とは言えないと変革を訴えたが、事態はまさにその危惧通りに動いている。
このような動きに対して、行きすぎた競争を助長する市場原理主義を排し、正常な社会・経済のあり方を追求するのが「助けあい」を原理とする協同組合の使命でもある。行きすぎた市場万能の考えは、人間の道徳的退廃をもたらし、多くの罪をもたらす。こうした事態は、市場の失敗であり協同組合には、市場万能の考えに警鐘を鳴らし、これを是正して公正な社会を実現して行く社会的使命がある。
近年、協同組合による新たな公共や公益の役割発揮が言われるのは、もともと協同組合は、助けあいの原理に基づく組織であるが、公正な社会の実現のためには、協同組合が公共・公益的な役割を進んで引き受け、社会的責任を果たすことにより、協同組合の存在をより大きくする願いが込められている。
第15回 協同組合と経済その1
ア、市場で評価されない価値
協同組合と経済の関係は、どのような関係があるのか。協同組合と政治や社会の関係はよく話題になるが、協同組合と経済の関係については、あまり議論されない。
協同組合と経済の関係を考えるには、ウィーン出身の経済人類学者カール・ポラニー(1886~1964年)が唱えた、①互酬、②再配分、③交換という経済の概念が参考になる。ポラニーによれば、①互酬、②再配分、③交換という人間の経済行動は、古来から人間社会に埋め込まれて存在してきているものとしてとらえられる。
ポラニーが言う、①互酬、②再配分、③交換の概念を、現在の経済活動に当てはめて考えてみると次のように理解できるのではないか。
互酬とは、贈り物・お互いさまの助けあいによる経済であり、再配分とは富の公平な分配としての税の経済であり、交換とは市場(マーケット)による財の交換経済と考えることができる。
このうち、税や市場経済の分野はおカネで表わされるが、互酬の分野は必ずしもおカネでは表現されない場合が多い。
資本主義経済では、経済的な価値は全ておカネで表わされ、おカネに換算できないものは価値とは見なされない。しかし、おカネに換算されない価値のなかには、社会的に大きな価値・役割を持っているものが数多くある。
例えば、女性が主に担う家事労働は家庭内のお互いさまの関係で成り立っており、市場に現れずおカネの価値には換算されない。例えば、育児について、保育の段階でこれを家庭内で行えば市場の価値にはならないが、子供を託児所に預けることで託児料金が発生し、それはたちまち市場経済・交換価値の対象として現れる。
この点、農業経営の水管理などの共同労働・家族労働や農業がもつ多面的機能なども、多くは無償労働として扱われ、農産物の価格として正当に評価されているとは思えない。
カール・マルクスは、資本主義体制における商品の価値を交換価値と使用価値に分けて考察しているが、このようにお金に換算されない分野こそ、交換価値に対峙する使用価値の世界であり、その多くは協同組合はじめ非営利分野が担っている社会的価値である。
半面で、この市場に現れない価値を「労働時間」で表わせば、その価値は莫大なものになり、おそらく市場の価値と同等かそれ以上のものという指摘もある。
民主党政権の高官がTPP交渉への参加促進について、「農業粗生産額8.5兆円は、国民総生産の1.5%に過ぎず、1.5%のために98.5%が犠牲になるのはごめんだ」との発言は、こうした経済についての基礎的な認識を欠くものであった。
また、ピーター・ドラッカーが、非営利組織が得ている資金(寄付金)は、ミッション経営が果たしている重要な役割に対して、GNP対比で2~3%にしかなっていないと嘆くのも、奉仕に関する労働時間が多くの場合、貨幣価値に換算されていないことによるものである。
日本における協同組合の付加価値額は、5兆3,666億円で全産業の1.9%を占めるとされる(2018年度協同組合統計表)が、これも貨幣価値に置き換えた協同組合のウェイトを表したものに過ぎない。
ポラニーは、そこまでは言っていないが、このような、互酬・再配分・交換の経済を主にどのような組織が担っているのかを考えると、大まかに言って互酬の経済=協同組合を含む非営利組織、再配分の経済=政府組織、交換の経済=営利組織と考えることができるのではないか(図参照)。
三つの組織のうち、互酬経済の分野の多くを担っているのが協同組合と言ってよく、協同組合は必ずしも市場経済で評価・実現されない社会的価値を正当に評価・実現する役割を担った組織といえる。
原発に代わる再生可能エネルギ-の確保、農業所得・農業の多面的機能の評価や食の安全確保などの協同組合の運動は、経済との関係でみれば市場で評価されない社会的価値を正当に評価・実現する公正な社会実現のための社会運動でもあるといえよう。
注)ポラニーが『大転換』東洋経済新報社(2009年)でロバート・オウエンを評価しているのは、市場経済の修正を協同組合に期待している証左でもあろう。また、斎藤幸平『人世の「資本論」』集英社(2020年)の中で、著者は後期マルクス思想の研究の中でマルクスは、ワーカーズコープを「可能なコミュニズム」とさえ呼んで評価していたと評している。
(図)社会における財・サービスの流れ
カール・ポラニーは、社会を統制する仕組みのなかに、互酬・再配分・交換という経済が埋め込まれていると考え、市場に現れるのは形式的な意味での経済、市場以外に埋め込まれている経済を実質的な経済と主張した。
ポラニーが主張する社会統制の仕組みとしての互酬・再配分・交換という経済分野は、世界の三大組織である協同組合組織、政府組織、営利組織が主に受け持つ経済の関係と奇しくも符合する。
第14回
協同組合と政治~等距離の関係
ここで言う政治との等距離の関係は、協同組合が政治、もしくは政党と等距離の関係であると同時に、協同組合に関わる個人においては、その政治信条は自由なことを意味している。
「空想的社会主義」とは、『資本論』を著したカール・マルクス(1818~1883年)やフリードリッヒ・エンゲルス(1820~1895年)が、ロバアト・オウエンやサン・シモン、シャルル・フーリェなどのユートピア思想家を批判した言葉である。資本主義の矛盾に気づき、これを変革しようとした点では、ユートピア思想家もマルクスも同じ立場に立っていたが、変革の方法はまるで違うものであった。
マルクスは、資本主義社会における諸問題は経済の仕組みにあり、資本主義の体制を変えなければ、その矛盾は解決できないと主張した。これに対して、オウエンなどのユートピア思想家は、必ずしも体制の変革を求めるのではなく、理想郷をつくることこそが必要と考えた。
マルクス、エンゲルスの考えによれば、資本主義の体制が変わらなければ理想郷などつくれるはずもなく、そう考えること自体が空想に過ぎず、それどころか、協同組合思想などのユートピア思想は、資本主義体制を単に延命させるための存在に過ぎないものだと激しく批判した。
マルクスの思想は、社会主義体制実現への理論的基礎となり、第1次世界大戦末期のロシア革命でマルクス・レーニン主義を標榜する社会主義国が誕生した。
一方、オウエンらの協同思想は、その後の運動展開を経て、「競争」と対峙した「助け合い」という協同組合組織の運営方法の確立をめざすものだということが、次第に明らかになって行った。もともと、競争や助けあい・自己保全という人間の本性は、政治体制の根底に流れるもので、既存の政治体制とは直接関係がない。
オウエン思想を空想的社会主義と批判したマルクスス・エンゲルスが、20世紀に入ってからの「協同組合原則」という協同組合組織の「運営方法」の確立までを見届けることが出来たら、全世界に広がったオウエン思想と協同組合の存在をどのように評価したのか、興味のあるところだ。
競争や助け合いという人間の本性は、政治体制とは直接関係がないことは、社会主義の国でも競争原理が大幅に取り入れられているし、競争を本旨とする資本主義の国でも助け合いの原理が導入されていることを見ることで納得がいく。人間の本性たる自己保全を旨とする政府組織については、なくなることはない。
資本主義国はもちろんのこと、社会主義の国でも協同組合組織は存在するし、とくに、発展途上国で協同組合が果たす役割は大きい。発展途上国では、政権にとって競争の原理に加え、助け合いの力がどうしても必要だからだ。
さらに、ここが重要な点であるが、前にも述べたように、一般的には助け合いの本性は競争の本性に比べて力が弱い。このため、競争と助け合いの本性を調整する役割を持つ政治は、どちらかと言えば競争原理が働く強者の立場に立つ場合が多い。それは、かつて自民党政権に代わった民主党政権においても、菅直人首相が、拙速にTPP交渉参加推進を表明したことでも明らかである(注)。
(注)ちなみに、日本の場合、小選挙区制における野党の力はあまりにも弱い。それは、野党が、安全に暮らしたいという、人間の自己保全の本性に正面から向き合っていないことに起因すると考えられる。政権をとった民主党政権でも、一方で農家の個別所得補償政策など期待された内容もあったが、沖縄の普天間基地の移転問題や東日本大震災時における原発メルトダウン事故への対応など、人間の自己保全要求への現実的で迅速な対応能力を持たなかったため、政権を維持することができなかった。
協同組合には古くから、「政府の強烈な抱擁は、しばしば死の接吻に終わる」ということわざがある。これは、多くの場合、研究者をはじめ協同組合関係者の間では、協同組合が国家の統制機関としてとりこまれて主体性を失うこととして説明されるが、このことわざが意味することはそれだけではなく、協同組合の本質を突いた格言と言えるものでもある。
人々の安全・自己保全という究極の役割を果たす政府は、政策遂行にあたって競争の原理と助け合いの原理を活用する。しかし、競争の本性は助け合いの本性に勝るので成り行きに任せれば、競争本位の政策遂行となる。
与党は多くの場合、競争優位の考えに立つ。与党の意を受け、競争優位の政策の主体になるのは政府である。したがって、助け合いの立場に立つ協同組合にとって、「政府の強烈な抱擁は、しばしば死の接吻に終わる」ということになるのである。
「財界は与党を支持し、政権運営を意のままにして自らの利益を実現しており、協同組合としても与党を支持するのは当然ではないか」、というのはいかにも安易な考え方であり、与党それも官邸派閥一辺倒の政治勢力に頼ることは協同組合の利益を大きく損なうことに留意が必要だ。
財界はもともと競争一義の組織であり問題はないが、助け合いを本旨とする協同組合が同じ立場に立って与党に寄りかかっても勝ち目はない。予算獲得など既得権益の確保についてはそれなりの力を持つが、制度改正などの基本課題についての対応についてはほとんど無力である。
とくに日本の場合、小選挙区制度が導入されているため、与党の力をバックにした政府官邸の力が巨大となる。農業分野においても、「規制改革推進会議」という競争政策推進装置のもとに競争を一義とする農政が行われた結果、①食料自給率37%、②TPP(環太平洋経済連携協定)、EPA(日欧経済連携協定)、日米貿易協定などの農産物の総自由化、③農協改悪(農協中央会制度の廃止、株式会社化、信用・共済事業の分離促進等)などの結果を招いている。
さらに、種子法の廃止・種苗法の改正や食品の安全基準の緩和などを通じて食の安全・安心を脅かす競争本位の政策が進められている。こうした事態を打開するには、野党はもちろんのこと、与党についても、例えば自民党における官邸勢力のみでない派閥横断の力の結集など幅広い政治勢力の結集が重要である(注)。
(注)農漁協組織についていえば、農水産業協同組合における貯金者保護・信用秩序維持のための全国的なセーフテイネット組織である農水産業協同組合貯金保険制度の掛け金(保険料率)が、2019年4月からそれまでの半分にひきさげられ、全国で70億円を超える経費削減を実現し、その資金が農業振興等にあてられるようになったことはその好例である。貯保制度の掛け金に手を付けるのは不可能と考えられており、不可能を可能にしたのは、新世紀JA研究会(農協の自主研究組織)による、自民党派閥横断の「地域の農林水産業振興促進議員連盟(100名を超える最大規模)」の結成とその政治勢力を結集した結果であった。それは専ら、保守本流を自認してJAしまね県一農協を実現し、初代組合長を務めた萬代宣雄の力によるものだった。農林水産業など国の根幹にかかわる産業振興には、超党派の取り組みが重要である。
つまるところ、協同組合は政治に対して等距離の立場を貫くことが重要で、協同組合原則の第4原則において、自主・自立をうたっているのはこのためである。「自主・自立の原則」の前の規定は、「政治的・宗教的中立」の原則であったことは、後述する通りである。
第13回
企業体としての協同組合
協同組合は、企業体である。協同組合はドイツ語でゲノッセンシャフト(Genossenschaft)というが、これは共同体(ゲマインシャフト)と機能体(ゲゼルシャフト)を統合した概念で、共同体と機能体の中間に位置する。
ゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)は、ドイツの社会学者フェルディナント・テンニース(1855~1936年)が唱えた社会進化論で、ゲマインシャフトは地縁や血縁による伝統的社会集団を、ゲゼルシャフトとは近代国家や大都市、会社組織のように人間の利害関係に基づいてつくられる社会集団のことをいう。
人間社会は、進化によりゲマインシャフトからゲゼルシャフトの社会に発展していき、それが社会の進歩である評されることも多いが、現代社会においては、双方ともその存在は不可欠とされるものである。
機能体は、何らかの目標をもって存在するものであるが、純粋の共同体は特別の目標を持たず、存在すること自体が目的とされる。機能体としての会社組織は、利潤追求という目的を持つが、共同体としての家族や村落組織などは特定の目的を持たず、存在すること自体に意義が見出される組織である。
会社などが収益性の観点で地域から撤退しても、協同組合はそうはいかないというのは、協同組合が共同体と機能体の両面を持っているからである。協同組合は助け合いの原理によって存在するので、存在すること自体に意味があるともいえるが、同時に機能体の側面を持っており、明確な目的を持つことによって十全にその役割を発揮することができる。
だが、いずれにしても協同組合は一つの企業体であるという認識が重要である。フランネル職布工たちが一人1ポンドの出資金を持ち寄ってロッチデール組合を設立したのも、協同組合が継続企業(ゴーイングコンサーン・Going Concern)として発展していくことを意図したものであると考えられるからである。協同組合とは、人々の助け合いの精神・力を事業化したものと言ってよく、協同の力で組合員のニーズを実現していく組織なのである。
企業体は一般的に言って、何らかの目的を持つ存在である。したがって、協同組合もまた何らかの目的を持った存在である。協同の意義をいくら強調してもそれはそれだけのことであって、何らかの目的がなければ人々は協同組合に結集しない。
日本の協同組合においても、農協・漁協は農業者・漁業者の利益を、生協は消費者の利益を事業協同組合は事業者の利益を目的とした組織として存在している。このため、農協・漁協・生協などの協同組合は、それぞれが組合員のニーズをいかに実現していくかが、第一義の課題である。
他方、協同組合は一般的に非営利(奉仕)を理念とした組織であるが、後述するように「協同組合原則」の中で協同組合の目的(世界の協同組合の目的)は必ずしも明らかにされてはいない。日本でも個別の目的法を共通する統一協同組合法の制定が期待されているが、それには、日本の協同組合が持つ共通の目的とは何かが議論されなければならないだろう。
日本の協同組合学会では、かつて国連による国際協同組合年の設定を契機として「中小企業憲章」を模して、「協同組合憲章草案」が議論されたが、協同組合一般についてはすでに協同組合原則が存在しており、「協同組合憲章」の制定を議論するとすれば、それは、「日本の協同組合憲章」が検討されるべきものと考えられる。そしてその中心的課題は、日本における協同組合の理念(目的)であろう。
いずれにしても、協同組合の一般論と個別の協同組合法に基づく議論は区別して議論されるべきであり、まずはそれぞれの協同組合において、それぞれの目的にしたがって組合員のニーズにいかに応えるか、言い換えればそれぞれの協同組合のビジネスモデルの構築・実現をいかにはかっていくかが重要な課題とされなければならない。
さらに、企業体として協同組合を考える場合、一般的に組織、事業、経営面からのアプローチが必要である。それは、協同組合が共同体と機能体の両方の性格を持つ組織であるからである。この三つの要素の関係を組合員の立場から考えると、組合員はまず必要とされることを組織活動・協同活動として開始する。
その後、継続して必要なものは事業活動として仕組んでいく。例えば農協における高齢者福祉活動は、当初は女性部における助け合いの組織活動からはじまり、その活動が継続して必要とされれば、訪問看護やデイサービスなどとして事業化されていく。
このように、協同組合における事業は組合員の組織活動を土台としている。言い換えれば、協同組合における事業活動・推進は組合員の組織活動という「靴底」を持っているのが特徴である。一般的に、会社組織は事業推進において組織活動という靴底を持たない。
また、組合員の組織活動と事業活動を統括するのが協同組合における経営である。ここにおける経営とは、狭義の経営管理技術のことを意味するものではなく、組織活動と事業活動をトータルでマネジメントすることを言う。
こう考えると、協同組合論とは、いかに株式会社組織とは違う協同組合原則に基づく組合員参加の協同組合経営を確立していくかということであり、協同組合論の確立とは優れて協同組合経営論の確立と言っていい。
この点、協同組合の経営を経営主義として排斥するのは、それが営利追求を第一義とする株式会社の経営のやり方を糾弾するのには適切であっても、協同組合経営そのものの重要性を看過するものであってはならない。これまでの協同組合経営論では、協同組合における組織・事業・経営活動の関係について、協同組合の経営とは、協同組合の組織活動と事業活動をトータルマネジメントするものであるという概念が必ずしも確立されてきたわけではない。
農協研究における多くの場合、経営は狭義の経営管理技術に押しやられ、例えば農協論においては、農協の運営は、組織・事業・経営の三要素で支えられているという「鼎論」が今でも疑問もなく信じられているように思える。「鼎論」の弊害は、筆者がいう「経営」が「運営」に置き換えられており、実際の経営とは別のところに協同組合の運営があるという一種の幻想を生むことになる(注1)。
付言すれば、企業体としての協同組合の存在を考える場合、とくに農業振興のような公的機能の役割を果たす農協などの場合は、経営学でいうところのドメイン(事業・活動領域)といった重要部分が、制度や法律によって守られている場合が多いことに留意が必要である(注2)。
このため、ドメインが制度や法律改正によって大きく変化したり、場合によっては一挙に失われる危険性を常にはらんでおり、それが組織の存亡につながる事態に発展することに注意が必要である。今回の中央会監査の廃止はそのことを如実に物語っている。中央会は事業として監査を失うことで組織の存亡の危機を迎えている。このことは、農協の信用・共済事業の分離問題等にも深刻な影響が及ぶ。
協同組合は法律で存在が守られていると言っても、企業体として、常に自己の経営理念(目的)に照らして、自らが行う事業の意味や存在の役割を真剣に考えておかなければならない。
農協改革で残された最大の課題である准組合員制度についても、その好例と考えるべきであり、制度や法律でその存在が保証されていると言って、その解決を専ら政権与党とくに自民党・官邸だけの力に頼るのは極めて危険である。自らの組織・事業の存続や発展の方向は自分で考えていかなければならず、協同組合第4原則でいう、自主・自立はそのためのものである。この点、長い間政府の庇護のもとにあった農協組織は、自主・自立への方向転換ができず中央会制度廃止の失敗を教訓にできないでいる。
(注)1.「鼎論」は、宮島三男『新農協論講話』全国協同出版(1993年)によって述べられている。
2.株式会社における事業は準則主義に基づいており、法律に即していれば、どのような事業を行うかは会社の自由である。これに対して協同組合の場合は認可主義であり、事業内容はそれぞれの協同組合法で定められている。
第12回
組織形態と運営
理念・特質・運営方法の組織運営の三つの要素と相互の関係は、以上に述べた通りであるが、この三つの要素について官僚(政府)組織、会社組織、協同組合組織の組織形態の違いから見て行きたい。多くの協同組合関係者にとっても、協同組合は分かりづらい存在でもある。それは、協同組合の理念・特質・運営方法の概念が一体として、もしくは混同して使われていることに多くの原因がありそうだ。協同組合を丸ごと信じ、宗教家のごとき境地に達している協同組合人にとっては、この三つの要素を分けて考えることは煩雑でしかない。
しかし、多くの人にとっては、丁寧な説明が必要だろう。協同組合への理解が難しいのは、協同組合の理念・特質・運営方法という組織運営の三つの要素と組織形態の関係が(図)のようになっているからだと思われる。(図)は、この関係を円錐形で表わしたものである。
この(図)で見るように、各組織は理念レベルではそれほど変わらず、特質や運営方法のレベルになるにしたがってその違いが鮮明になっていることが分かる。実際、これまで政府組織、会社組織、協同組合組織はそれぞれが独自の組織としての理念(目的)を持っている訳ではなかった。
前に見た通り、政府組織は国民生活の安全、会社組織は営利、協同組合組織は非営利(奉仕)という組織の大きな目標(組織の独自性)を持つが、それぞれの組織がそれ以上に明確な組織の目標を持っているわけではない。つまるところ、それぞれの組織は、組織の理念(目標)ではなく特質や運営方法の違いによって、それぞれが持つ、自らの存在意義を主張してきたのである。協同組合陣営についても、後に述べる通り、協同組合として独自の目的・考え方を理念として原則に盛り込んではいない。
ところが、2015年9月に国連サミットがSDGs(持続可能な開発目標)を打ち出したことで、事態が一変した。国連は、人類共通の目標(政府組織、営利組織、非営利組織の枠を超えた目標)として、2030年に向けてめざす17のゴール、169のターゲットを打ち出してきたのである。
SDGsの提案は、グローバル経済・社会の進展による格差の拡大や資源の枯渇、地球環境の汚染等で、持続可能な社会の実現が不可能になってきたという認識がその背景にある。人類は、もはや世界共通の持続可能な開発目標を持たなくては、その存続さえもが危ぶまれる事態にまでに追い込まれたのである。
言い換えれば、国連は政府組織、会社組織、協同組合組織が独自の組織理念を打ち出すのに先んじて、営利・非営利・公共の各セクターを超えた世界共通の持続可能な開発目標を提案してきたのであり、ここに今回のSDGsの提案の意義があると言っていい。今回の提案に対して、人間の本性を体現した政府組織、会社組織、協同組合組織(各セクター)は総力を挙げてこの人類共通の目標・課題に挑んでいかなければならないと認識すべきであろう。
それには、各セクターがいま一度自らの組織の理念・特質・運営方法を確認し、それぞれの組織特性を生かした取り組みが必要になってきている。SDGsの背景にある地球環境の汚染・破壊は、主に過剰な人間の競争意識を煽る資本の分配利益の最大化行動によってもたらされたものと言ってよく、これに対峙する人間の助け合いの本性に基づく協同組合の役割は大きいといえよう。
SDGsの取り組みにあたって大きな課題・ポイントとなるのが組織運営の三つのうちの、それぞれの組織が持つ理念(目標)である。協同組合組織もその例外ではない。そのように考える理由は、組織運営の三要素のうち、組織の特質と運営方法についてはセクターごとにはっきりした違いが見いだせるのに対して、理念(目標)についてはその違いが必ずしも明らかになっていないからである。
協同組合組織における理念(目標)は、世界レベル、各国レベル、単位組織レベルで検討されなければならず、それは後に述べる通りである。
付言すれば、持続可能な社会の発展を阻害してきたのは資本主義であり、その原因となった競争社会に終止符を打つべきだという意見も多いが、人間の本性たる競争心を排除することは難しく、人間が持つ競争心を利潤追求一辺倒でなく、持続可能な社会建設のために活用すべきであろう。
いずれにしても、有史以来、人間は自らが持つ①自己保全、②競争、③助け合いの本性を発揮してそのベストミックスにより理想社会の実現を模索していると考えられ、競争は助け合いの、助け合いは競争の力を借りて社会の発展に貢献していかなければならない。それは、必ずしも、現在の資本主義体制の継続を意味するものではない。
第11回
人間行動と組織運営
前述のように、組織は理念・特質・運営方法の三つの要素によって運営されるが、これらの概念は抽象的なもので分かりにくい。そこで、これを分かり易く人間の行動に例えて説明してみる。組織の行動は人間の行動と相似の関係にあると考えるからだ。
日本プロ野球の王貞治選手は、世界のホームラン王であるが、組織を王選手に例えれば、組織運営の三つの要素は次のように説明できる。王選手は、自らの野球に対する考え方を持っているが、これが組織にとっての理念にあたる。また、その考えを実現するために鍛錬を重ねて強靭な肉体をつくって行くが、これが組織にとっては特質にあたる。さらに、強靭な肉体を使って一本足打法という独自のワザを編み出すことになるが、これが組織にとっての運営方法にあたる。
これは、「王選手は自らの野球に対する考え(理念)に基づき強靭な肉体(特質)をつくり上げ、一本足打法(運営方法)を編み出し、それらを使って王選手の考え方(理念)を実現して行く」というように説明することができる。
王選手という野球の求道者が居なければ全てははじまらず、王選手の野球に対する情熱・考え方があってこそ、初めて彼の肉体や一本足打法が生みされる。その意味で理念こそが全てのはじまりと言える。しかし、一方で一本足打法が生み出されなかったら、彼は世界のホームラン王にはなれなかっただろう。この例は、振り子打法によって世界を制したイチロー選手にも言える。超一流の技を持つ人・組織は、超一流の人・組織をつくる。
この説明は、協同組合の説明にもよく当てはまる。後にも述べるように、世界における協同組合の誕生は、ロバアト・オウエンの理想社会実現の情熱(協同組合の理念)や実践だけでは足りず、ロッチデール組合の運営規約(協同組合の運営方法)がその鍵を握っていた。
その後、ICAが中心になって、この規約を単に協同組合の店舗の運営規約に終わらせず、普遍的な協同組合という組織の運営方法(協同組合原則)として確立することによって、協同組合は官僚(政府)組織や営利組織とならぶ世界の三大組織の一つになったのである。こうした意味から、ロッチデール組合の誕生は近代の協同組合運動にとって特別な意味を持っており、ロッチデール組合が世界最初の協同組合と言われるゆえんである。
組織も人間行動と同じであり、王選手の例えと同じように、組織のリーダーはじめ組織を支える人びとの情熱・理念があってこそ、組織の特質や運営方法がつくられて行くが、情熱・理念だけでは特質や運営方法をつくりだすことはできない。そこには、日々のたゆまない努力が必要になる。
これまでの協同組合論では、理念や特質・運営方法といった組織の概念が確立されず、これらの概念が一体として、もしくは混同して使われてきたため、多くの人びとの協同組合に対する理解を妨げてきたのではないかと思われる。
第10回
協同組合の理念・特質・運営方法
前節で述べたように、協同組合とは人間の本性に基づく助けあいの組織である。したがって、状況の変化によってその存在が左右されるものではない。しかし、だからと言って、無条件にその存在が保障されるものでもない。
協同組合が存続して行くためには、社会において一定の役割を果たして行くことが求められる。それでは、協同組合が存続して行くために、役割を果たすとはどのようなことであろうか。結論から言えば、それは協同組合が自らの組織理念(目的)を実現して行くことである。それでは、協同組合の理念を実現して行くためには、どのようなことが必要であろうか。
ここで重要になってくるのが、理念・特質・運営方法という組織運営の三つの要素である。理念とは組織の目的・考え方を、特質とは組織の特性・体質を、運営方法とは組織の技(ワザ)を意味する。これらの組織運営の三つの要素は、協同組合に限らずあらゆる組織を理解するうえで必要なもので、われわれはこの組織運営の三要素を理解することによって組織の実態を知ることができる。
そして、組織や協同組合を考えるうえで決定的に重要な要素が、このうちの組織の運営方法という概念である。われわれは、理念・特質・運営方法という組織運営の三つの要素、およびその相互の関連を組織の運営方法という概念に着目することではじめて十全に理解することができる。
これらの組織運営の三つの要素と相互の関連については、これまで、協同組合研究でも述べられることは少なく、なかでも組織の運営方法の意義について、独自に取り上げたものはないと言っていいのではないか。研修会等でも、協同組合の「理念や特質」は冒頭のテーマとしてよく取り上げられるが、「運営方法」までも視野に入れたものは、皆無と言っていい。また、運営方法について述べられていても、それが理念や特質との関連のもとに述べられることはない。後に述べるように、ICAが定める「協同組合原則」についても、協同組合の理念・特質・運営方法といった観点から一貫して解説されたものは、筆者が知る限り存在しない(注)。
協同組合に限らず、組織は理念・特質・運営方法の三つの要素で運営される。卑近な例でみると、組織をつくり出している人間について、例えばアスリートについて、「あの選手は心・技・体が充実している」という場合、「心」は組織の理念、「技」は組織の運営方法、「体」は組織の特質として説明できるものである。心技体の表現は、日本では古くから何となく頻繁に使われているが、心技体を組織における理念、特質、運営方法と例えた説明を筆者は知らない。
これらの、理念・特質・運営方法の相互の関係は、理念が組織の特質・運営方法をつくりだし、その特質や運営方法を組織運営に生かすことによって理念が実現されるという関係にある(図)。
(図)組織(協同組合)における理念・特質・運営方法の相互関係
協同組合の理念
↑↓
協同組合の特質
↑↓
協同組合の運営方法
したがって、組織の理念を実現することとは、その組織の特質や運営方法を実際の組織運営に生かすことにほかならず、組織の特質や運営方法の理解なくしては、理念は実現しないことになる。
このように考えると、組織理念を達成して行くためには、組織の特質と運営方法の理解が必要不可欠なことが分かる。協同組合についての理念・特質・運営方法をどのように考えるのか、言い換えれば「協同組合原則」をどのように理解すればよいかは、後に述べる通りである。
なお、筆者には先駆者など多くの人々の努力で発展してきている協同組合の運営指針としての協同組合原則は、組織の理念・特質・運営方法のうち、実際には、運営方法が先行して合意形成が行われ、「95年原則」から徐々に組織の特質「定義」や理念「価値」の合意形成に移ろうとしているように思える。
(注)協同組合と株式会社の基本理念・運営方法の違いとして、出資者の目的、組織面・運営面・財務面の特色を述べたものがあるが、ここで述べる理念・特質・運営方法として一貫した説明があるわけではない。「新協同組合とは」<改訂版>社団法人JC総研2011年(50ページ)。
第9回
法律上の協同組合(協同組合の認知度)
ICAは国連に登録されているNGO(Nongovernmental Organization:非政府組織・民間の自発的公益団体)のうち最大の組織で、国際赤十字に次ぐ古い組織となっており、2011年3月末現在、ICAには93カ国、247組織が加盟し、組合員は約10億人を超えている。国連は、国際協同組合年の目標として、協同組合の認知度の向上を掲げているが、ICAの登録状況は、192の国連加盟国数(2011年1月1日現在)の約半数の国となっており、新興国などを別にすれば、全体としては世界的に認知度が高い組織である。
協同組合の認知度は、世界各国の法制度にも見ることができる。協同組合を規定する世界各国の法律には、二つのパターンがある。一つは、協同組合について、それぞれ個別の農業協同組合法、水産業協同組合法、信用協同組合法、生協法などの法律をつくり、これによって規制するもので、日本はこれにあたる。もう一つは、単一の協同組合(基本)法がつくられ、それぞれの協同組合がそれに基づいて運営される方法で、ヨーロッパの場合はこうした法体系を持つ国がほとんどで、スペイン、ポルトガル、カナダなどは単一の協同組合法のみが存在する国とされる。
また、基本法と個別法の両方を持つ国には、フランス、ロシア、台湾などがあり、それまで個別法の体系だった韓国は、2011年12月の国会で協同組合基本法が制定され、基本法と個別法の両方を持つ国になった。
一方、2010年現在、52カ国およびドイツの6州に、憲法での協同組合の規定があるとされる。このうちイタリア憲法では、第1部、第3章、第45条で「①共和国は、相互扶助の性格を有し、私的投機を目的としない協同組合の社会的機能を承認する。適切な手段で協同組合の増加を推進・助成し、適当な監督により、その性格と目的を確保することは、法律で定める」などと規定されており、スペイン憲法では、第7編、第129条で、公共経済や経済計画の役割を重視した中で、労働者の企業参加、協同組合の助成、労働者の生産手段の所有を促進することが国の義務とされている注)。
日本の場合は、いまだ協同組合の基本法がなく、農業協同組合法、漁業協同組合法、生協法など、個別法による法体系になっているが、それでも独占禁止法の適用除外や税制の特別措置などとともに、協同組合の存在が法的に承認されている。世界的には協同組合の認知度が問題にされるが、資本主義が発達・成熟した日本のような先進国と呼ばれる諸国では、協同組合の認知度は高い。
ちなみに、日本においては協同組合についての特別の法律上の規定は存在しないが、独占禁止法の適用除外の規定によって、その規定に該当するものとして、22条の1から4の要件を満たすものが協同組合と解釈されている(注)。
協同組合には、法人税の軽減税率の適用など税制上の特典が与えられている。
(注)独占禁止法第22条 この法律の規定は、次の各号に掲げる要件を備え、かつ、法律の規定に基づいて設立された組合(組合の連合会を含む。)の行為には、これを適用しない。ただし、不公正な取引方法を用いる場合又は一定の取引分野における競争を実質的に制限することにより不当に対価を引き上げることとなる場合は、この限りでない。
1.小規模の事業者又は消費者の相互扶助を目的とすること。
2.任意に設立され、かつ、組合員が任意に加入し、又は脱退することができること。
3.各組合員が平等の議決権を有すること。
4.組合員に対して利益分配を行う場合には、その限度が法令又は定款に定められていること。
注)堀越芳昭『共済と保険-世界の憲法における協同組合規定』(社)日本共済協会2011年4月号。
第8回
相互扶助と非営利性
助け合いは、協同組合など非営利組織の運営原理であるが、これは非常に広い概念である。助け合いには、多くの富と権力をもつ強者同士の助けあいもある。強者同士の助けあいは、独占企業の間で結ばれるカルテル(市場支配の共同行為)や、原発事故の安全性をことさらに強調した政府や東京電力、マスコミとの談合体質などに見られる。
こうした強者同士の助けあいは、公正な社会実現のためには排除されなければならない。このため、巨大企業間のカルテルの行為は、「独占禁止法」で禁じられている。また、助けあいには、強者から弱者への一方的なものがあり、この典型は各種の「施し」と言われる行為に見られる。こうした助けあいは、協同組合が行う助けあいとは異なる。
協同組合が行う助けあいは、組合員の「相互扶助」による助けあいであり、相互扶助とは、経済的・社会的に弱い立場に立つ者同士が、お互いの共通の利益や新たな価値を実現して行くために助けあって行くことを意味する。相互扶助には、自立(自律)した個人の力が必要だ。組合員が他の組合員に一方的に寄りかかったり、また他の組合員を出し抜いたのでは相互扶助の協同活動は成り立たない。
例えば、農業協同組合の活動では、農産物の販売事業は組合員の農業所得の向上という共通の利益を実現して行くための協同活動として行われるが、農産物を一人で売ったのでは、加工業者や販売業者に買いたたかれる。そこで組合員は、JAに農産物を共同出荷して業者への価格交渉力を強め、有利販売につなげる。
この時、組合員が他のメンバーに甘えて手抜きして粗悪品を作ったり、出し抜き販売したのでは、協同の力を発揮することはできない。購買事業も、肥料や農薬・飼料などについて、組合員が業者から粗悪品を高く売りつけられるのを防ぎ、メーカーからの共同購入により、大量買い付けを行うことによって良い品質のものを安く購入するために行われる。
次に協同組合は、非営利原則による運営される組織であるが、この非営利性についてどのように考えればいいのか。協同組合が行う非営利(奉仕)活動は、営利に対峙する組織の目的であり、協同組合が持つ大きな特性である。
この点について、およそ企業の利益獲得には、二つの意味がある。一つは組織を維持するための利益であり、もう一つは分配を目的とした利益の獲得である。協同組合は、後者の利益の分配を目的とする組織ではないので、この面から非営利組織と言われる。
非営利組織は自らの組織を維持するための利益の獲得までも否定する組織ではない。「95年原則」でも、「…出資金は、何がしかの利息を受け取るとしても、制限された利率によるのが通例です」と述べている。
この原則が強調しているのは、利子の受け取りの制限であり、協同組合として組織維持のための利益の獲得まで否定している訳ではない。協同組合といえども、組織の運営に要する利益まで否定されては、組織の存続ができなくなるからだ。要するに協同組合とは、あくまで経済団体なのであり、ゴーイングコンサーン(継続企業)としての要件を備えている存在でなければならないのである。
これに対して、営利企業は、自らの組織維持のための利益の獲得は当然のこと、分配のための利益を増やすために活動する(二重の利益の獲得)。この意味で、会社は営利組織と言われる。
他方、政府組織については、そもそも民間組織でいう営利・非営利という概念そのものが存在しない。これまで述べたように、政府組織は人間の自己保全のための組織であり、組織の存続そのものが目的である。
政府組織は公益が目的であり、必要な経費は税金として徴収される。政府組織は、往々にして非営利組織だと説明される場合が多いが、そのような説明をすると、非営利組織である協同組合との違いが曖昧になり、協同組合は政府組織と同じではないかという誤解さえ招くことになる。政府組織が非営利組織だというのは、あくまで法律上の概念であることに留意が必要だ。
この点、NPOなどは民間の非営利組織という見方をすれば、協同組合と同じ組織概念になるが、協同組合とは一線を画する組織と考えるべきではないだろうか。協同組合が特定のメンバー間の助けあいの組織で企業体であるのに対して、NPO組織は、公益を目的とし、不特定多数のメンバーへサービスを提供するという特徴から、むしろ政府の代行組織の性格が強いようにも思える。
経営学の泰斗ピーター・ドラッカーが著した「非営利組織の経営」は、ミッションに基づく非営利組織の経営を論じたものであるが、同じ非営利組織である企業体としての協同組合はその対象とされていない。近年話題になっている社会的企業や社会的協同組合などといった企業形態の模索についても、政府や営利企業から自立した協同組合の本質論を踏まえた理解や取り組みが必要である。
第7回
ダーウィンの進化論
生物進化の過程において、環境変化に適応したものが生き残るという適者生存のダ―ウィンの考え方は、「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、環境に適応して変化できる者である」などの言い方で、現代の経営学においても広く喧伝されている。
そこで競争と助けあいの人間の本性について、ダーウィンの進化論を考えてみる。『種の起源』を著したチヤールズ・ダーウィン(1809~1882年)の進化論は生物・自然科学ばかりでなく、社会思想にも大きな影響を及ぼした。ダーウィンは、イギリス軍艦ビーグル号で南米および南太平洋の調査航海中、生物の諸相を観察し、種の変化は長い間の環境変化によるものと考えた。
進化論は、生物は常に環境に適合するように進化し、勝ち残った結果として多様な種が発生するという自然淘汰、適者生存の考えに立っている。『種の起源』が発表された1859年は、イギリスにおいて産業革命が真っ盛りの時期で、ダーウィンが唱えた進化論は、「社会進化論」などとして、産業革命期以降の「人類競争」のバックボーンにされた。
適者生存には弱肉強食の激しい生存競争があり、競争に生き残った者だけが生物進化の勝者になると考えられたからだ。こうした進化論の理解は、競争こそが人間の本性であり、社会発展の基礎であるという考え方に立っている。だが、このような競争だけを前面に出す進化論の理解は一面的なものだろう。
ダーウィンが、人類は助けあうという利他愛の特性を持つことにより生き延びてきたと指摘するように、何も競争だけが生物進化の勝者をつくってきたわけではない。生物界には、競争だけではなくお互いが助けあう「共生」という生き方があり、これも生物界における生き残りの大きな力になっている。付言すれば、生物界はお互いが他の生物に依存し合う食物連鎖で成り立っており、一見すると互いの生物は競争しているように見えるが、全体としてみると生物はお互いに助けあって種の保存を行っている。
ダーウィンが説く利他の愛~助け合いの本性は、資本主義の矛盾が噴出してきた産業革命の勃興期に協同組合という形で現実の社会に出現してきたと見ることができる。地球温暖化が進むなかで、近年、生物多様性の重要性が提唱されるのは、生物進化の頂点に立つ人類も、生物の多様な依存関係の構造を破壊しては、自らの存在自体が危うくなるからである。
利他の愛とは自分のことよりも他人の幸福を願うことを意味するが、これには二つのパターンがある。一つは見返りを求めないいわゆる無償の愛であり、もう一つは「情けは人のためならず」というように他人の幸せを願うのは、結局は自分の利益になるという効率性の観点からの愛である。
いずれにしても、利他の愛に象徴される助け合いの心は、人間の競争心によって牽引される文明社会の矛盾に対応する力として必要不可欠なものである。日本においても、助け合いの精神は、阪神淡路大震災や東日本大震災またそれによる原発事故などに対する大きな力になっている。
第6回
人間の本性
協同組合は、人間の助け合いの本性を体現する組織というのが筆者の見解であるが、それでは人間の本性についてどのように考えるのか。人間とは、そもそもどのような存在であるか、言い換えれば人間の本性について述べたものに、有名な「性善説」と「性悪説」がある。「性善説」と「性悪説」は、いずれも中国戦国時代の思想家である孟子(紀元前372~289年)と荀子(前298?~238年以降)が説いたものだ。性善説は孟子、性悪説は荀子によって唱えられた。
性善説は人間の本性は善であり、仁・義はもともと人間に備わっているので、それに基づく道徳政治を主張した。これに対して、性悪説は人間の本性は悪であり、礼法による秩序維持が必要なことを主張した。
「性善説」と「性悪説」は、人間の精神面での性格を問うたもので、アメリカの経営学者のダグラス・マグレガー(1906~1964年)も同様な観点から、「X理論」、「Y理論」を唱えている。「X理論」は性悪説、「Y理論」は性善説と置き換えてもいい。
人間はもともと怠け者と言うのが「X理論」であり、反対に働き者と言うのが「Y理論」でる。こうした人間観は、経営学における人事管理の基礎になっている。人間は本来怠け者というとらえ方をとる人は、人事政策でアメとムチの政策をとる。これに対して、人間は本来働き者というとらえ方をする人は、職員の自発性を尊重する政策をとる。
人事面に限らず、人間の営みにおいて、人間はそもそも善なる存在か、悪なる存在かは永遠の課題である。死刑廃止論は性善説によるものと考えられるが、このことについて今も決着が着けられているわけではない。人間の本性は何かを考えることは、大変難しい哲学的な問題でるが、一つの考え方として、人間の持つ本性を「自己保全」、「競争」、「助けあい」と考えることができる。
これらの本性は、性善説や性悪説といった高度な人間の精神面・道徳面でのありように比べて、より動物的なもので、人類誕生以来、人間の遺伝子に深く刻み込まれて来ており、人間が持つ究極の特性と言って良いものであろう。
そのように考える理由は、すでに述べたように、政府組織、会社組織、協同組合組織の三つの組織が、「自己保全」、「競争」、「助けあい」という運営原理を持っていることにある。
こうした人類の自己保全・競争・助けあいという人間の本性は古くから存在するが、このうち競争・助け合いという人間の本性が経済社会の組織運営システムとして確立されていったのが、資本主義社会における会社組織であり、協同組合組織であった。このため、近代的な協同組合組織は資本主義の確立の以前と以後は区別され、資本主義の確立期以降が近代的な協同組合組織とされている。
注)協同組合は資本主義確立以降の問題とされているが、人間の本性たる助け合いの組織は古くから存在しており、資本主義確立以前の助け合い組織を対象とした研究はこれまで以上に深められなければならないだろう。
第5回
会社組織
会社組織は、協同組合組織や官僚組織とならぶ世界の3大組織のうちの一つである。正確な統計はないが、会社組織は3大組織のうち、数では最も多いであろう。
会社組織の「競争」という組織の運営原理は、「利潤追求(分配利益の最大化)」といった組織の運営方法によって実現される。会社組織における「利潤追求」という運営方法は、1602年のオランダ東インド会社の設立をもって確立されて行く。東インド会社は大航海時代の産物であり、大航海時代は現代のグローバル経済の先駆けでもあった。したがって、会社組織はグローバル経済を前提とした組織であると言っていい。
もちろん会社組織が誕生する以前にも、古くから競争原理に基づく組織は存在した。戦争は、人間が持つ競争原理の極致ともいえるものだが、人類史上今日まで絶えることなく続いている。戦争を専らとする軍隊は、官僚組織であると同時に、究極の競争原理に基づくもっとも古い人間の組織の一つと言っていい。
古代ギリシャのオリンピアで行われていた競技(後世の近代オリンピック)は、専ら男性によるもので、それは兵士の育成、軍事意識の高揚をはかることをすることが目的でもあり、人々の競争意識を掻き立てるものであった。
会社組織は、本格的には18世紀後半からはじまる産業革命での資本主義体制の確立によって発展して行くが、会社組織の利潤追求という運営方法の形は、1602年にはすでに出来あがっていた。
協同組合の運営方法を世界で初めて実現する契機となった「ロッチデール組合」の設立は、それから242年後の1844年のことであった(もっとも、1793年には、すでにイギリスで、今日で言う共済組織としての「友愛組合法」が制定されている)。
大航海時代、東インド会社は、香辛料獲得などの事業を行うため、船の建造や船乗りの確保などに莫大な経費を必要とし、多くの資産家(当初はヨーロッパ各国の王室)から出資を募った。嵐や海賊などのリスクを凌ぎ、無事に航海が終わって利益が出れば出資に応じてその利益を出資者に分配した。これが株式会社の利潤追求の仕組み・組織の運営方法の確立のはじまりだった。
時代を経て、株式会社が発行する株券は商人の間でモノと同じように売り買いされるようになり、「株式市場」がつくられて行った。利潤追求という運営方法は、出資に対するより多くの配当、つまり、より多くのお金を儲けるという意味からすると、極めて分かりやすい運営方法であり、協同組合原則のような多くの取り決めは必要とされない。競争という人間の本性は、利潤追求の会社組織という形で整備されて行ったのである。
競争原理に基づく会社組織の運営方法については、利潤追求・分配利益の最大化を目指すやり方であるだけに特定することは難しい。前述した通り、およそ公序良俗に反しない限り、どのような方法でも運営方法になりうる。一方で、競争原理による資本主義がもたらした地球環境の破壊や人類の滅亡を招く核兵器の開発競争や解決策の見えない原発事故などは、貨幣経済における分配利益の最大化にとっても割の合わないものになってきている。
こうした人間の競争原理に基づく資本の横暴について、多くの人々が警鐘を鳴らしている。国連によるSDGsの採択は、資本主義の暴走によって地球環境が破壊され、持続可能な社会の継続が困難になってきていることがその背景にある。
注)1.今日では企業の会計年度はワンイヤー・ルールと言われ、一年となっているが、大航海時代の会計年度は、航海を始めて終わるまでの不特定の期間であった。また、この時代に複式簿記が発明されているが、それは航海をはじめるにあたって出資者を募り、航海を終えて利益を分配する一部始終を記録する説明責任(Accountability)を果たすためのものであった。
2.競争原理に基づく今日の資本主義は、貨幣経済の下での分配利益の最大化をめざすもので、本質的な意味で金融資本主義である。
第4回
官僚組織
官僚組織は、会社組織や協同組合組織とならぶ世界の三大組織のうちの一つである。この組織の代表的なものは政府・行政組織であり中央官庁や都道府県庁や市役所などがある。
官僚組織は3大組織の内で最も古く、紀元前から存在する。官僚組織は、国家成立以前の昔からある組織形態と考えられるが、古代エジプト・ローマ帝国や中国・秦の始皇帝の時代などを経て官僚制として定着・確立して行く。
ちなみに、日本において本格的に官僚機構が成立するのは、大化の改新(645年)を経た大宝律令の制定(701年)からとされる。
官僚組織は、なぜこのような長い歴史を持つのか。それは古来、官僚組織が国家・国民ないしは人びとの安全な生活を保証するため、人間の集団生活をコントロールする仕組みとして必要だったからである。
このように考えると、官僚組織も「安全に暮らしたい(自己保全)」という人間の根源的な本性に基づいてつくられた組織であることが分かる。人びとが安全に暮らすことは、「競争」や「助けあい」に優先する。
それゆえに、官僚組織は、会社組織や協同組合組織よりもはるかに古い歴史を持つ組織なのである。こうした官僚組織には、会社組織における競争や協同組合における助けあいといった運営原理ではなく、国家・国民の安全のための組織維持(官僚制)という運営原理が働く。
官僚制は、組織自体を維持させていく運営原理なので、会社組織や協同組合組織などあらゆる組織に共通して働く運営原理であると同時に、放っておけば組織の自己増殖・動脈硬化を起こす。このため、絶えざる改善が必要である。
この組織維持(官僚制)という運営原理は、①専門性、②上意下達、③文書主義(何事も文字に表わすこと)などといった組織の運営方法によって達成される。
官僚組織が国家・国民の安全のために存在するという最も分かり易い例は軍隊の存在であるが、軍隊組織には専門性・上意下達などの官僚制が最も強く働く。
官僚組織研究の権威でもあるドイツの社会・経済学者のマックス・ヴェーバー(1864~1920年)によれば、官僚組織は、①権限の原則、②階層の原則、③専門性の原則、④文書主義の原則などの特徴を持つが、これらの官僚組織が持つ特徴こそ、官僚組織の運営方法として理解することができる。
協同組合も組織である以上、これらの官僚組織の運営方法を活用しており、部や課の職制による専門性の確保、組合長・役員・部課長からの命令(上意下達)、パソコンなどによる稟議書・契約書の作成(文書主義)など官僚制の運営方法を取り入れている。これは会社組織においても同様である。
一方、協同組合においても合併などにより組織の規模拡大が進められているが、協同組合は、元来組合員主体の民主的な組織であり、合併による組織の巨大化に伴う組織の自己増殖や動脈硬化といった官僚制の弊害に常に注意し、これを除去・改善する方法を考えて行かなければならない。
付言すれば、官僚組織・政府組織の存在は、それが自己保全という人間の根源的な欲望を満たすものだけにおろそかにすることはできない。人間の自己保全という欲望を考える場合、とくに軍隊・国防の問題は避けて通れない。国防問題は、戦争を想起するだけに誰しもが避けたい問題である。
日本の場合、小選挙区制による二大政党としてかつての民主党が誕生したが、今も続く沖縄の普天間基地の移転問題について、当時の鳩山首相が自身に腹案があるとして最低でも沖縄以外の県外移転を表明したが、何らの具体策を示せず結局は辺野古移転を認めたのは国民の失望を買った。自社さ政権として社会党が政権をとったものの、ほとんど何の説明もなく一転して日米安保条約賛成の立場をとって凋落の一途をたどったのも同党の確固たる国防政策がなかったことによる。
民主党や社会党が国民の信頼を裏切り政権を失ったのは、人間の究極の欲望である自己保全についてしっかりした政策を持ち合わせておらず、それが露呈したからだ。これは共産党はじめ他の野党にも言えることであり、護憲もしくは改憲にせよ、国防問題についてしっかりした具体策を持たない政党は政権を取り、それを持続していくことは難しい。日本における自民党が多くの問題を抱えながらも政権を維持している理由の一つは、自衛隊を合憲とする憲法改正を党是とした自主防衛についての具体策を持っているからである。
注)1.K・マートン(1910~2003年)は官僚制の逆機能(弊害)として、①規則万能・責任回避・秘密主義・画一化、②権威主義・自己保身、③繫文縟礼、④セクショナリズムなどを指摘している。
2.民主党が政権を失ったのは、競争原理に基づく有効な経済政策を持たなかったことにも大きな原因がある。
第3回
組織の目的・運営原理・運営方法
官僚組織は自己保全、会社組織は競争、協同組合組織は助け合いという人間の本性を体現した組織なのだが、これまでに人類はこの三つの組織に到達したのであり、官僚組織(政府組織)、会社組織、協同組合組織は、世界の3大組織と言っていいものである注)。
注)現実には、これらの三つの組織のほか、これらの中間に位置するもの、あるいはミックスしたものなど様々な組織がある。
これらの三つの組織は、組織の運営原理は違うものの、お互いに重なりあって経済的・社会的役割を果たしている。それでは、これらの組織はどのようにして現実に存在しているのだろうか。
これらの組織が、自己保全、競争、助け合いという人間の本性を体現した組織であると言っても、それだけでは世の中に存在していくことはできない。
そこで注目すべきものが、組織の「運営方法」という概念である。組織の運営方法については、別に協同組合の「理念・特質・運営方法」として詳しく述べるが、ここでは、組織の「目的」、「運営原理」、「運営方法」といった観点から組織の内容を説明してみたい。
これまでに述べた、官僚組織、会社組織、協同組合組織の三つの組織と組織の目的、運営原理、運営方法の関係を整理すると(表)の通りとなる。
(表)三大組織の目的・運営原理・運営方法
官僚(政府)組織 | 会社組織 | 協同組合組織 | |
目的 | 国民生活の安全 | 営利 | 非営利(奉仕) |
運営原理 | 自己保全 | 競争 | 助け合い |
運営方法 | 官僚制の法則(専門性・上意下達・文書主義など) | 利潤・分配利益の追求(出資に対するより多くの配当など) | 協同組合原則(一人一票・出資に対する利子の制限など) |
(表)のうち、まず官僚(政府)組織について見てみよう。この組織は歴史上もっとも古くから存在するもので、筆者が協同組合を人間が持つ助け合いの本性に基づく組織であると考えるに至った組織であり、これから述べる協同組合論の骨格をなす組織である。
この官僚組織について、まず注目したのはこの組織の運営方法である。官僚組織の運営方法とは、官僚制の法則のことをいう。ここでいう官僚制の法則とは、M・ヴェーバーがその著『官僚諭』で述べる官僚制の特徴のことである。
筆者は、この『官僚諭』によって、はじめて曲がりなりにも協同組合を論ずることができるようになったと言っても過言ではない。
『官僚論』では官僚制の特徴として専門性、上意下達、文書主義などの特徴があげられる。実は、この専門性、上意下達、文書主義などの官僚制の法則、言い換えれば組織の運営方法こそが官僚組織を支えている根幹のものである。
この官僚制の法則は、人間が持つ究極の目的である安全に暮らしたいという自己保全の欲求原理を満たすために存在する法則であるところから、会社組織や協同組合組織などおよそ組織と言われるものに共通して働く法則でもある。言い換えれば、官僚制の法則は、組織そのものを維持継続させる法則でもある。
官僚組織の目的は国民の安全であり、人間が持つ究極の目的である「自己保全」という運営原理によって支えられているものである。官僚組織は、紀元前の時代から存在するする組織であるが、それはこの組織が、人間が持つ究極の欲求である自己保全の欲求を満たすものであるからだ。
このように官僚組織を考えると、協同組合や会社組織についてもその本質の理解が容易になってくる。 人間が根源的な欲求が、安全に暮らしたいという「自己保全」ということになれば、そのほかの人間の欲求として考えられるのは何であろうか。官僚組織のほかに考えられるのは、会社組織であり協同組合組織である。
ここまでくると、会社組織は「競争」、協同組合組織は「助け合い」の原理に基づく組織であると理解するのはむしろ自然の流れと言っていいであろう。
前項で人間の本性は、「自己保全」、「競争」、「助け合い」であると定義したが、それは現実に存在する、「官僚組織」、「会社組織」、「協同組合組織」によって説明できるものでもある。
以上のように考えれば、協同組合組織の目的は、非営利(奉仕)であり、運営原理は助け合いとうことになる。また、組織にとって不可欠な運営方法は、「協同組合原則」と考えていいだろう。
「協同組合原則」で述べられる、一人一票、出資金に対する利子制限などは協同組合が持つ独自の運営方法であり、協同組合はこの独自の組織の運営方法を持つことによって世界の三大組織の一つになりえたのである。この辺りの事情については、これから随所で明らかにされる。
また、会社組織の目的は営利であり運営原理は競争である。運営方法は、運営原理が競争だけに特定することは難しい。利潤追求・出資に対する分配利益の最大化を目指して、およそ公序良俗に反しないあらゆるやり方が会社組織の運営方法となりうる。
だが、競争が運営原理にある以上、時として公序良俗に反する場合があることも保証の限りではない。競争の極致にある戦争などは、公序良俗を超えた人類の悲劇と言っていい。
第2回
協同組合論講座~機能論とそもそも論
協同組合については様々な見方があるが、その内容を見ると、そのほとんどが機能論であることが分かる。機能論は役割論とも言い換えることができる。
「現代社会における協同組合の役割とは何か」、同じく「農協の役割とは何か」、「生協の役割とは何か」、等々である。およそあらゆる組織は人間がその目的を果たすためにつくられたものであり、すべての組織は何らかの役割をもって存在する。
したがって、協同組合を論ずる場合も、そのほとんどが機能論・役割論で論じられるのはむしろ当然のことと考えられる。組織の本質を考える場合、機能論と表裏の関係にあるのがそもそも論である。それは、同じコインの表と裏の関係に例えられる。
筆者の管見によれば、協同組合のそもそも論・本質論は、これまで協同組合論研究で議論の対象にされることはなかったし、したがってその研究成果も見当たらない。それは、日本の協同組合研究においても、諸外国の協同組合研究においても同様である。
だが、機能論と裏腹の関係にあるそもそも論について論ずることは、協同組合という組織を理解するうえで極めて重要なことと考えられる。
協同組合の機能論を体系的に理論化したのは、フランスの協同組合研究者のジョルジュ・フォーケである。フォーケが論じたのは、有名な協同組合セクター論である。そこで、これまでの協同組合論の到達点と考えられるフォーケのセクター論(領域論・機能論)を手掛かりに、協同組合のそもそも論に迫ってみたい。それは、フォーケのセクター論に内在する、協同組合の本質論・そもそも論に迫っていくことでもある。
協同組合とは、そもそもどのような組織なのであろうか。協同組合とは助け合いの組織であるなどと、何となく言われることはあっても、その理由は述べられない。
協同組合のそもそも論なきところに代わって登場するのが、協同組合こそ人類の理想社会をつくるといった強い思い入れであり、それは、協同組合を万能とする協同組合原理主義ともいえる議論に到達する。
また、その反対に、助け合いに基づく協同組合などはとるに足らない存在であり、競争こそが経済・社会発展の源泉であるという競争至上主義の考えが横行する。こうしたある意味で、不毛ともいえる両極論に至らないためにも、そもそも論を議論し理解しておくことは重要である。
そこで、協同組合のそもそも論について考えてみたい。結論から言えば、そもそも協同組合とは、人間の「本性(Human Nature)」たる助け合いの原理に基づく組織と考えることができる。
それでは、ここでいう人間の本性とは何を意味するのだろうか。人間の本性をどのように考えるのかは難問であるが、一つの考え方として、それを、①自己保全(自らの安全)、②競争、③助け合いと考えることができる。
そのように考える理由は、世の中には大きく分けて、①官僚組織(政府組織ともいう、以下同じ)、②会社組織、③協同組合組織の三つがあるが、これらの組織を動かす原理は、①自己保全、②競争、③助け合いという人間の本性と考えることができるからだ。
いうまでもなく組織は人間がつくったものであり、人間の欲望をかなえるために存在する。したがって、組織の運営原理は、人間の欲望・本性と言っていいだろう。
人間は有史以来の到達点として、この三つの組織に辿り着いたという意味からすれば、これらの組織の運営原理である、①自己保全、②競争、③助け合いは人間の本性と考えて差し支えないということになる。
組織の運営原理=人間の本性であるから、協同組合は人間の本性たる助け合いの原理に基づく組織、もしくは、助け合いという人間の本性を体現した組織であると結論付けられる。
このように、これまでの協同組合論の到達点としてのフォーケのセクター(公的セクター、営利セクター、非営利セクター)諭を手掛かりにそれを敷衍し、その実在としての、①官僚組織(政府組織)、②会社組織、③協同組合組織、そしてその組織を形づくる三つの人間の本性という論理展開で協同組合という組織を説明することが可能となる。
①自己保全、②競争、③助け合いという人間の本性は、人類の発生以来、その遺伝子に組み込まれてきたものであり、それは官僚組織、会社組織、協同組合組織という形をもって、順次歴史に登場することになる。
このうち、官僚組織が最も古く、会社組織、協同組合組織は、人類が本格的な競争社会に突入した資本主義社会の確立後以降、大きく発展してきた。
協同組合のとらえ方には色々の見方があるが、これまでの協同組合論はそのほとんどが役割論である。役割論には大きな意味があるが、時代によってその内容や重要性は変化していく。
ここでいう「そもそも論」からすると、協同組合は官僚組織や会社組織などと同じく人間の本性に基づいて必然性をもって生まれてきたものであり、情勢の変化によってその存在が左右されるものではない。
また、このような人間の本性は当然のこと、人それぞれに備わっているものだが、人によってその強弱が異なる。このうち、安全に暮らしたいという自己保全の本性は、より根源的なもので、人によって大きな差はないと言っていい。
これに対して、競争と助け合いについては、一般的には競争の本性が強いのではないかと思われる。人間だれしも自己の安全を第一に考えるが、一方で競争心や助け合いの心を持たない人はいない。
以上に述べた、自己保全、競争、助け合いといった人間の本性と、それを体現する組織の関係は、図に表すと次のようになる。図のように、これら三つの人間の本性ないし組織は、人間の観念の世界もしくは実社会において互いに重なり合って存在し、経済的社会的な役割を果たし世の中を形づくっている。
(図)人間の本性と組織の関係
注) この図は、営利組織と非営利組織および政府組織における存在ウェートを大雑把に現したものである。営利組織については、わが国における2019年度のGDP(国内総生産)550兆円の額を、政府組織については、2019年度の一般会計101兆円・同別会計の200兆円合計300兆円程度の予算規模を念頭に置いている。
わが国における協同組合の国内総生産はそれほど多くはないと思われ、現に協同組合の付加価値額は、5兆5626億円で全産業の2%を占めるに過ぎないとされている(2017年度協同組合統計表)。
図における助け合いの分野は、貨幣価値として市場に現れないシャドーワークの部分を含んだものとしてイメージしている。シャドーワークの部分の多くが助け合いの精神に基づくものであるとすれば、協同組合の存在は、貨幣で表される国内総生産のなかでの割合に比べよほど大きなものと考えられる。
貨幣価値であらわされない、もしくは市場に登場しない価値を労働時間として比較すれば、貨幣価値に表される労働時間と貨幣価値に表れない労働時間は拮抗するという研究成果もある。
第1回
はじめに
これから述べる協同組合論講座の内容はそれほど斬新なものではなく、協同組合に関心を持つ皆様が日ごろ何となく考えておられることを独自の切り口で整理し直したものと言っていいだろう。一方、これまでの協同組合論は、切り口が明確でなく、そのほとんどが単なる歴史の説明や独善性の強い協同組合に対する強い思い入れに費やされており説得力に欠けるものが多い。
これから述べる協同組合論は、これまでにない組織経営学視点とも言っていい、独自の切り口で協同組合を論じておりいささかの自負を持つものであるが、こうした試みが今後の協同組合論の研究や実践活動に貢献できうるとすれば、望外の幸せである。大学等で協同組合論の講座がなくなってしまったという実態も、協同組合論を組織経営学の観点から見直せば、再構築できるのではないかとも思う。
なお、筆者が全中に籍を置いていたというこれまでの経歴から、協同組合運営の実際については、主に農業協同組合の例によっているので、農協関係者以外の皆様には実態に応じて敷衍して考察頂ければと思う。
これから述べる内容は、2012年に筆者が上梓した「JA新協同組合ガイドブック―組織編」(全国共同出版刊)がもとになっている。協同組合は、そもそも人間の本性たる「助け合い」の原理のもとに存在するという筆者の主張は、実はその前年に上梓した「これからの総合JAを考える―その理念・特質と運営方法」(家の光協会刊)を執筆中に思いついたものである。
協同組合とはどのような存在かを考えるヒントを与えてくれたのは、マックス・ヴェーバーの「官僚諭」であり、それをもとに「これからの総合JAを考える」(前述)を発刊した。それは奇しくも東日本大震災の発生時に重なる。
協同組合と筆者との出会いは、学生時代に経験した「資本論」の輪読会でのことであった。「資本論」の中でマルクスやエンゲルスは、資本主義発展の勃興期における協同組合思想を空想的社会主義として厳しく糾弾した。
以来、協同組合という存在が頭の隅に残った。その後、筆者が職を得たのは協同組合・JAの指導機関たる全国農業協同組合中央会(JA全中)だった。全中では有志により「協同組合とは」という研究会が持たれており、多少の興味があったが本格的な議論には参加しなかった。
時代は高度経済成長期となり、協同組合とは何かを考える機会はますます遠のいた。筆者の思いのなかでは、正直なところ一時は協同組合限界論が頭をよぎったこともある。
筆者がJA全中で担当した仕事は、自ら望んだこともあり農政問題ではなく、合併や組合員組織の問題など、そのほとんどが組織・経営の分野の仕事であった。
それでも、協同組合と正面から向き合わざるを得なくなったのは、ようやく全中時代の終わりのころ、教育関係の仕事をするようになってからである。本格的に協同組合のことを考えるようになったのは、全中退職後に籍を置いた、(財)「協同組合経営研究所」時代以降のことで、JA東京中央会が行っていた「協同組合論」の講師を引き受けてからのことである。
付言すれば、筆者は宮脇朝男元全中会長が、(学校法人)「協同組合短期大学」を排し、昭和48年に創設した「中央協同組合学園」の最後の学園長を務めることになるのだが、その学園が廃止となった主たる原因は、JAが行政によってしっかりガードされており、協同組合の理論的構築が十分でなかったことによるものと考えている。
それだけにJAグループ、もしくは広く協同組合陣営の中にグレードアップされた、象徴的な教育機関の重要性を痛感している。協同組合は聖人君子やお人よしの集まりでもない。他の組織と同様、日々、協同組合的事業の開発・経営の確立によって、組合員のニーズに応えるために戦う組織でなければならない。
これから述べる通り、協同組合を定義すれば、協同組合とは「助け合いという人間の本性を体現し、組合員のニーズ・社会的価値を協同の力で実現する事業体であり組織運動体」ということができる。
筆者は、中央会という農協運動の指導機関に身を置く者として、長年協同運動に携わってきた。そうした意味で、間接的ではあるが協同運動の実体験は長いが、学問的掘り下げにはいささか心もとないものがあることは承知の上である。それでも、これから述べる独自の切り口による協同組合の理解について大方のご批判を頂き、それによって今後の協同組合運動の発展に資することができればと思う次第である。
長い連載となりますが、しばしみなさまの仕事の合間のお付き合いとして、ご高覧・ご笑覧頂ければと思います。