『日本の生協運動の歩み-(再改訂版)現代日本生協運動小史』2021年10月1日(再改訂版)、斎藤嘉璋監修、日本生活協同組合連合会、1,320円

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その52

『日本の生協運動の歩み-(再改訂版)現代日本生協運動小史』2021年10月1日(再改訂版)、斎藤嘉璋監修、日本生活協同組合連合会、1,320円
知っているようで実は知らない生協のについて、運動史として記されていますが、大変参考になりました。農協と異なり、生協は法案成立後も員外利用規制の強化など反協同組合的な法改正に苦労していたことが記されています。法の枠外で班活動を強化するなど、農協にとっても見習うべき活動が多くあると思います。とくに、80年代の成長飛躍の時代に最先端の技術を取り入れたり、人材開発に力を注いだ点は学ぶところが多いと思います。
監修者の斎藤さんの略歴は次の通りです。
「斎藤嘉璋(さいとう・よしあき)1936年、新潟県佐渡生まれ。早稲川大学の学生時代から生協に関わり、60年日本生協連入協。69年以降、早大生協、戸山ハイツ生協、東京都民生協、束京都生協連の役員。89年~99年、日本生協連常務理事。99年~2003年。同常勤参与・50周年記念歴史編纂室長として『現代日本生協運動史』、同『資科集』の編纂・執筆に携わる。03年以降、いばらきコープ、コープとうきょう、東都生協の非常勤役貝などを務めた。」(奥付より)
いつものように、チンパンジーの抜粋載せておきます。
「最終的には、片山内閣から芦田均内閣に交代した48年7月に生協法案が国会に上程されました。このころには生協法制定の主導権は日協同盟の手を離れており、この法案は厚生省で作られ閣議で一部修正されたものでした。そして民主自由党により「員外利用の禁止」などの規制条項が加えられた上で、消費生活協同組合法が成立し、同年7月30日公布、10月1日施行されました(同時に産業組合法は廃止されています)。
成立した生協法には、民主的な理念とロッチデール原則が生かされており、何よりも生活協同組合が法的に位置付けられたことは、生協の事業や活動の展開に向けた大きな一歩となりました。しかし、生協側の要求の柱の一つであった事業権の確立は曖昧にされ、信用事業も認められませんでした。都道府県を越えて事業を行う連合会や員外利用も禁止されるなど、日協同盟案に比べてはもちろん、産業組合法に比べても問題の多いものでした。他の協同組合法にはない、政治活動についての規制が盛り込まれたことも反発を呼ぶものでした。多くの生協関係者は、生協法制定を評価しつつも、同時に改正を求める声を上げました。」(第1章 戦後の生協運動の再生、P48~49)
「政府は中小企業団体法に続き、小売商業調整特別措置法案(商調法)を国会に提出しました。これは員外利用規制などを強化し生協規制を拡大するもので、日本生協連は全国消団連と共に廃案に向けて全力を挙げました。この運動は、生協法制定運助に次ぐ大きな国会闘争で、59年2月26日、雪の中で行われた国会前での座り込み行動は大きく報道され、世論を喚起しました。商調法は成立したものの、生協規制条項を外させるなどの修正をさせることができました。しかし、それに関連して生協法が改定され、貝外利川禁止条項が強化されることとなりました。」(第2章 経済復興と生協の活動領域の広がり(1950年代)、P80)
「生協の規模の拡大の下で、各生協では班会、班長会、地区運営委員会という参加・運営組織のあり方も規模と組織密度にふさわしいものが検討されました。地区運営委員会編成を中学校区から小学校区へ細分化したり、共同購入の支部別あるいは店別の委貝会を行政区などの地区委員会に再編したりするなど試行を重ねて確立していきました。運営委員が組織を動かす体験を積み、運営委員会制度を成熟させてきたことが、急速な班増加がありながらも、班活動か発展していった大きな力になりました。また、地区別ニュースの発行なども行い、「地域に根差した」自主的な活動の要としての役割も果たしていました。」(第5章 生協規制を克服、飛躍的発展へ(1980年代)、P158)
「1980年代の生協事業の急速拡大を担ったのは共同購入事業でした。共同購入事業では、
80年代前半から多くの生協で組合員参加の商品開発などが進み、それまでの日本生協連のコープ商品中心から各生協が独白に開発した日配品や生鮮食品などを含めた品揃えの充実か図られました。
また、70年代末から先進生協で取り組まれたOCRによる注文・集計、代金の銀行口座からの引き落としなどのシステムやPD(ピックディレクター)など後方施設の近代化が多くの生協に普及していったことも、急速な伸長を後押ししました。」(第5章 生協規制を克服、飛躍的発展へ(1980年代)、P159)
「北関東協同センターの発足を契機に、事業連合づくりの助きか活発化しました。すでに生活クラブ生協や首都圏コープグループは、独自の県域を越えた連帯組織を持っていましたが、かながわ生協と静岡生協も県域を越えての事業連帯を迫求しており、それぞれが事業連合づくりを目指しました。
1990年には、生活クラブ事業連合(生活クラブ連合会)、首都圏コープ事業連合(現パルシステム連合会)と神奈川県を中心とするユーコープ事業連合の3事業連合が厚生省に認可されました。これらの事業連合は商品だけでなく、共同購入や店舗の運営など事業全休の連帯強化を目指しました。
また、90年には11の拠点生協による連帯組織「日本生協店舗近代化機構(コモ・ジャパン)が発足し、店舗展開と運営の近代化、そのための人材育成やノウハウの交流、商品の共同仕入れなどを展開することとなりました。」(第5章 生協規制を克服、飛躍的発展へ(1980年代)、P167)
「日本生協連は、全国2位の規模のコープさっぽろが倒産という事態になった場合、3生協とその100万人もの組合貝に与える損害だけでなく、全国の生協にも多大な影響を及ぼすとの認識で、コープさっぽろを中心に3生協の再建に当たることとしました。資金面での支援が行われるとともに拠点生協からは職貝の派遣などが行われ、コープさっぽろには日本生協連の内館晟(うちたてあきら)専務理事が理事長として派遣されました。
コープさっぽろへの資金支援は日本生協連の責任の下、全労済などの協力で行いましたが、さらに厳しい状況が予想される中で、日本生協連は連帯支援のあり方の検討を進め、98年度総会に「生協経営支援機構・連帯」(連帯基金)の創設を提案しました。連帯基金は日本生協連55億円、会員生協45億円、計100億円を拠出し、再建支援に活用しようというもので、1年をかけた会貝論議の結果、多くの生協が連帯基金への拠出に協力しました。
98年以降、いくつかの生協が日本生協連に再建支援を要請し、支援機構から連帯基金が融資されています。連帯基金の創設を含むこの再建支援活動は、日本生協連を軸に全国の会員生協同士が資金、人材を出し合うという、これまで経験していない全国連帯の新しい試みとして成功しました。」(第6章 転換期の困難と発展への再構築(1990年代)、P214~215)
「北関東および千葉、埼玉の5県の連帯として発足したコープネット事業連合(現コープデリ連合会)には、コープとうきょう(現コープみらい)が1999年に加入、その機能統合を強める中でコープながのが2004年に、市民生協にいがた(現コープにいがた)が07年にそれぞれ加入し、I都7県の生協による組織になりました。
ユーコープ事業辿合には、1993年に山梨中央市民生協(後の市民生協やまなし、現ユーコープ)が加入し、3県の生協による組織になりました。
首都圏コープ事業連合は2005年にパルシステム連合会に名称を変更、対象エリアが広がり、生活クラブ生協も東日木全体から近畿地方までをカバーする広がりを見せました。
東海コープ事業連合では合併による会貝数の減少があり、コープ北陸事業連合ではCO・OPとやまの脱退がありました。
コープ九州事業連合は組織的な変化はありませんでしたが、グリーンコープ連合は九州地方から近畿地方までをカバーする組織となりました。
これらの事業連合に加入する生協の総組合貝数と総事業高は、00年度10事業連合で746万人、1兆2987億円でしたが、10年度には13事業連合1534万人、2兆248億円の規模となりました。事業連合加人生協の総事業高が地域生協と居住地職域生協の総事業高に占める比重は、00年度48%から10年度74%へと拡大しました。」(第7章 事業連帯の前進と生協法の改正(2000年代)、P236~237)
「全国の生協の組合員数は、2010年度の2621万人から21年度中に3000万人に達する見込みです。総事業高も10年度の3兆3218億円から19年度には3兆5494億円になり、約2300億円増えました。個配が急速に拡大して、11年度に1兆円を突破、19年度には1兆3298億円に到達し、班配や店舗事業の減少をカバーしました。宅配事業におけるインターネット供給金額も、10年度に1809億円たったものか、19年度には3360億円と成長しました。
共済事業は、それまでの急速成長からは新規加入者の仲びが鈍化したものの、契約者数、受入共済掛金が共に伸びて、20年度には900万人、2000億円に到達しました。
日本生協連は、11年6月の通常総会で「日本の生協の2020年ビジョン」(以下、2020年ビジョン)を圧倒的多数の賛成で決定しました。2020年ビジョンは、「10年後のありたい姿」を「私たちは、人と人とがっながり、笑顔があふれ、信頼が広がる新しい社会の実現をめざします」とし、「地域の誰もが参加できる生協をめざして生涯を通じて利用できる事業・サービスを創り上げ、2020年にはそれぞれの地域で過半数世帯の参加をめざします」を目標として掲げました。」(第8章 被災地復興支援と地域社会づくりへの参加(2010年代)、P265)