島崎晋著『一気に同時読み!世界史までわかる日本史』2016年12月、SBクリエイティプ、223頁、880円

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その80

島崎晋著『一気に同時読み!世界史までわかる日本史』2016年12月、SBクリエイティプ、223頁、880円
浅学菲才のチンパンジーには、歴史ものは難しいなぁ。
明治維新前後に日本が列強諸国から植民地にされなかったのは、偶然に思えてきた。また、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けたのも地勢的にも歴史的にも必然かと思えてくる。
まだまだ、戦争は終わりそうにないし、イギリスを代表とする「帝国主義」(古い表現ですみません)も一旦影を潜めたかにみえるが、金融資本主義で復活しつつあるのではないでしょうか。
著者の略歴は、次の通り。
「島崎晋(しまざき・すすむ)
1963年、東京都生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒業(東洋史学専攻)。大学在学中に、立教大学と交流のある中華人民共和国山西人学(山西省太原市)への留学経験をもつ。卒業後は旅行代理店勤務ののち、編集者として歴史雑誌の編集に携わり、歴史作家になる。著書に『目からウロコの世界史』『目からウロコの東洋史』『世界の「美女と悪女」がよくわかる本』(以上、PHP研究所)、『さかのぼるとよくわかる世界の宗教紛争』(廣済堂出版)、『人の流れでわかる世界の歴史』(じっぴコンパクト文庫)『日本人が知らない世界の宗教タブーと習慣』『世界界史暴君大事典」(以上、徳間文庫カレッジ)など多数。』(奥付より)
いつものように、何カ所か抜粋しておきます。
「ペリーが江戸湾を測量し艦砲を放って威嚇すると、幕府はやむなく交渉の席に着き、日米和親条約を締結した。これにともない赴任してきた初代領事のハリスは、幕府に通商条約の締結を求めた。
ときの十三代将軍家定には持病があり、難局に対処できる器ではないことから、越前藩主松平慶永は、将軍の世子に一橋慶喜を立てて対処すべきと開明派大名に呼び掛けた。老中の阿部は、通商条約と将車継嗣の二大問題を幕府が決定するのは荷が重いとして、伝統的な権威を持つ朝廷に認証を求め、責任の一端を分かつことで難局を乗り叨ろうとした。
阿部はペリー来航の責任を取って辞任し、後事を堀田正睦に託したが、長らく逼塞していた京の公卿たちは、これを幕府による政務専決権の放棄であるとして、俄然色めき立った。京での工作に失敗した剔山は江戸に戻り、松平慶永に将軍を後見させる案を具申した。将軍の家定は、聡明とされる一橋慶喜を世子にとの動きは、自身を暗愚とするものと不快を示し、彦根藩生井伊直弼を非常時にのみ置かれる大老に任じる命を下した。
井伊は朝廷の指示で、諸大名に条約締結に関する意見を求めると、ほとんどの藩は幕府の方針に同調した。だが水戸藩の徳川斉昭の子らが藩主の藩だけは開国に反対していた。
井伊には朝廷をないがしろにする気はなかったが、アロー戦争にも勝利したイギリスが、軍艦三隻を日本に向かわせたとの情報を受け、イギリスとの交渉を仲介するというハリスの意見に乗り、一八五八年にアメリカと「日米通商修好条約」を締結するとともに、紀州
藩主徳川慶福(家茂)を将軍世子と発表し、混迷に終止符を打った。
だが、幕府には国際法に関する知識がなく、外国人居留地で起こった係争には領事裁判権を許した。それが治外法権を認める不平等条約と悟ったときにはすでに遅かった。条約の改定は簡単にはいかず、この問題は二十肚紀初頭の日莫同盟成立時まで引きずられる。
金銀の交換比率にしても、国際的には一対二九だったが、国内では一対五のため、外国商人はドル銀貨と小判を交換し、それを上海に運ぶだけで莫大な差益を得ることができた。当然ながら、日本から人量の小判が流出する事態が生じた。
徳川斉昭らは、勅許のない違勅調印をしたとして、井伊を糾弾した。将軍家一門が幕政を混乱させることを苦々しく感じた井伊は、斉昭らに隠居や蟄居を命じるとともに、京で活動する志士らを弾圧する「安政の大獄」を開始した。多くの藩士が犠牲になった水と藩士の中には、脱藩してテロに走る者が現れた。彼らは一八六〇年三月に、井伊を桜田門外に襲って倒した。白昼の政府最高権力者の暗殺は、幕府権力の低落を内外に示した。
開国して、西洋人の上陸が合法化されると、水戸藩や長州藩が醸成していた尊王思想が、長い鎖国で染み付いた攘夷思想と結びつき、過激派たちは尊王攘夷を叫ぶようになった。当時の日本の知識層に尊王思想を持たない者は皆無に近く、政局は幕府側の尊王開国派と、反幕府の尊王攘夷派の争いになっていった。だが、日本人同士が争う愚から「公武合体論」が唱えられ、その路線を強化させるため、将箪家茂に皇女和宮が降嫁された。
西洋諸国との貿易が開始されると、生糸や海産物、雑穀、蝋などが愉出優先品目とされた。これにより国内では品不足が生じて価格が高騰し、これに連動して諸物価も上昇した。
幕府は綿製品などの輸入品から二〇パーセントの輸入関税が得られ、年に100万両の収益になったが、庶民は生活苦の原囚は対外貿易にあるとした。その感情が外国人を追い払えという攘夷思想を勢いづかせ、西洋人を狙ったテロが横行した。
テロの実行犯の所属する鵬が明らかになれば、西洋諦国はその藩に対して報復行動に出た。薩摩藩は生麦事件を起こしたことから薩英戦争を、長州藩は外国船に無差別の砲撃を加えたことで下関戦争を経験することになった。この戦いを通じて薩長の両藩は西洋諸国との軍事力の差を思い知らされ、西洋の技術を取り入れた近代化が急務であることを実感させられた。これを境として、攘夷は倒幕のための方便と化した。」(第7章 ヨーロッパの帝国主義と開国へ転換する日本、196~198頁)
「ロシアは、ピョートル一世以来、不凍港の獲得を悲願とし、南進と東進の二つの政策が継承されてきた。南進して黒海の制海権を捩り、ボスポラスとダーダネルス両海峡の自由航行権を得られれば地中海から大西洋に出ることができ、当面の敵はオスマン帝国だった。
エカチェリーナ2世時代に、黒海北岸の領有と両海峡の商船の自山航行権は獲得済みで、さらなる権利獲得を目指して、一八五三年にはクリミア戦争に突入する。だが、ロシアの強大化を警戒する英仏などが、オスマン帝国の味方として参戦したことから、ロシアはパリ条約においては黒海の中立化を承認させられ、南進政策は頓挫したかと思われた。
しかし、ロシアはまだ諦めておらず、バルカン半島全域をオスマン帝国から独立させた上で、保護国化しようと目論んだ。それは1873年のサン・ステファノ条約で成功したかに思えたが、またもイギリスなどから横やりが入り、一八七八年に締結されたベルリン条約では、戦勝で得た利益のほとんどを奪われてしまった。
一方の東進では、ロシアはすでに一八六〇年の北京条約で、ウスリー江以東の地を獲得し、翌年には悲願の不凍港ウラジオストクを建設。これで後は朝鮮を保護国にできれば太平洋に出るのも容易であった。
イギリスはロシアの極東進出を警戒しながら、イラン進出にも手を染めていた。世界中に利権があるが、それらをすべて維持し続けるには大変なことだった。それでもナポレオン打倒以来の外交姿勢である「栄誉ある孤立」を守り、どの国とも同盟を結ばなかった。
イギリスを支えた繁栄の源は南アジアにあった。一八五七年に起きたインド大反乱では窮地に立たされたが、難局を乗り切ったイギリスは形骸化したムガル帝国を滅ぼし、さらに数百のマハラジヤ(藩王)と個別の契約を結ぶことで、1877年にはビクトリア女王を君主と仰ぐインド帝国を成立させた。インドを直接支配することで、そこを本国なみに効率のよい地にしようと目指した。」(第7章 ヨーロッパの帝国主義と開国へ転換する日本、203~204頁)