『大転換-市場社会の形成と崩壊-』

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その11

チンパンジー

『大転換-市場社会の形成と崩壊-』カール・ポラニー著、野口建彦・栖原学訳
2009年7月東洋経済新報社、5,280円

著者のカール・ポラニー(1886-1964)について、表紙帯から引用すると、「1886年オーストリアのウィーンに生まれる。父親の仕事の都合で幼少期に一家はハンガリーのブダペストに移住。1906年ブダペスト大学進学。1908年文化運動組織「ガリレオ・サークル」を結成。1915年オーストリア=ハンガリー軍の騎兵将校として従軍。1918年負傷のため退役。「ハンガリー革命」により、自由主義勢力連合政権の法相となる。1919年右派民族主義政権の誕生により、ブダペストを去りウィーンに亡命。1923年イローナ・ドゥチンスカと結婚。1922-24年ミーゼスとの「社会主義経済計算論争」に参加。1924-33年ウィーンの総合誌「エスターラィヒッシェ・フォルクスヴィルトjの編集主幹を務める。1933年ナチス政権の出現により、ウィーンからロンドンに亡命。1934-40年オクスフォード大学・ロンドン大学の成人教育プログラムである「労働者教育協会」の講師を務める。1941-43年アメリカのヴァーモント州にあるベニントン大学の客員研究員となり本書を執箪、1944年アメリカで、45年イギリスで出版。1947-53年カナダに移住し、コロンビア大学客員教授を務める。1953-58年経済人類学の研究プロジェクトに従事。1958年『初期帝国における交易と市場』を出版。1958年マジャール語の詩集『鋤とペン』を妻イローナと英訳し出版。1961年ハンガリー訪問。1963年ハンガリー再訪。1964年没す。死後に雑誌『共存』刊行。」とのこと。

長い期間積んでおく状態だったが、外出自粛生活の中でようやく目を通すことができた。ロバート・オウエンを大変高く評価していることが分かり、嬉しかった。

彼がロバート・オウエンについて記述している部分のうち、幾つかを長い引用になるが抜粋しておきます。

「ロバート・オーウェンは1819年に、120年以上も前の「産業協会」を設立しようというベラーズの計画に新たな息吹を吹き込んだ。このときには、散発的な貧困は今や窮乏の奔流となっていた。オーウェンによる「協同組合村」とベラーズによる計画との主たる違いは、前者の規模がはるかに大きく、同じ広さの土地に1200人を収容しているという点であった。失業問題を解決するためのこのきわめて実験的な計画のために寄付を募る委員会には、ほかならぬデイヴィド・リカードのような権威も加わっていた。それでも、寄付をしようという人はまったく現われなかった。少しのちには、フランス人のシャルル・フーリエが、そのファランステール計画に投資をしようという匿名出資者が現われるのを、来る日も来る日も待ちつづけたとして嘲笑された。この計画は、金融に関するイギリス最高の専門家の一人リカードの後援を受けていたオーウェンの計画と、非常によく似た考え方に基づくものであった。のちにニュー・ラナークのロバート・オーウェンの工場-ジェレミー・ベンサムも匿名出資者であったが、その慈善計画の金銭的な成功で世界的に有名にならなかったとしたら、それはフーリエの計画と同じようなことになっていたかもしれない。今のところまだ貧困に関する標準的な見解もなく、また貧困者を使って利益を生み出す一般に認められた方法も存在しなかったのである。

オーエンは、ベラーズから労働紙幣の考えを引き継ぎ、1832年にそれを彼の「全国公正労働交換所」に適用した。しかし、その試みは失敗した。労働者階級の経済的自給自足という労働紙幣の構想に密接に関連した原理-これもまた、ベラーズの者えであった-が、次の2年間における有名な「全国労働組合大連合(Trades-Union)運動の背後にあったものである。「労働組合大連合」は、すべての熟練工、職人、技工を、親方も含めて糾合した―つの統一的組織であり、明文化されてはいないけれども、それらの労働者を平和的な運動を行う団体へとまとめ上げるという目的をもっていた。誰がこれを、その後の100年間における「一大組合」形成の激烈な試みの萌芽であると考えたであろうか。サンディカリズム、資本主義、社会主義、そしてアナーキズムは、それぞれが提出した貧困者のための計画において、違いを識別することは実際のところほとんど不可能であった。1848年におけるプルードンの「交換銀行」は、哲学的アナーキズムの実践面での最初の功績であったが、基本的にはオーウェンの実験からの自然な派生物であった。国家的社会主義者であるマルクスはプルードンの考えを激しく批判した。このマルクスの批判以米、この種の集産主義的計画における資金の供給は、国家に対して求めるべきであるとされるようになった。この点でルイ・ブランやラサールの計画は歴史に残ることになったのである。」(第9章貧民とユートピア、P189~191)

「間題がまだ萌芽状態にあったことは、クエーカー教徒ベラーズ、無神論者オーウェン、功利主義者ベンサムといった多様な思想の持ち主が生み出した計画が、驚くほど一致していたという点に示されていた。社会主義者であったオーウェンは、人間とその生来の権利の平等を固く信じていたが、ベンサムは平等主義を軽蔑し、人間の諸権利を嘲笑して著しく自由放任に傾斜していた。オーウェンの「平行四辺形論」は、ベンサムの「産業所」の構想に非常によく似ているので、人はオーウェンの思想がベラーズによって強く影郷意されたことを思い出さなければ、オーウェンがもっぱらベンサムの「産業所」に触発されたと考えるかもしれない。これら3人はすべて、失業者の労働を適正に組織すれば余剰が生み出されるにちがいないと確信していた。人道主義者のベラーズは、その剰余を何よりも他の受難者の救済のために使うことを望んだ。また功利主義的自由主義者のベンサムは、それを株主に引き渡そうとした。さらに社会主義者のオーウェンは、それが失業者自身に返還されることを願ったのである。三者の間の相違は、将来の亀裂の兆し、それもほとんど感知できないほど僅かな亀裂の兆候を示していただけであったが、彼らが共通して抱いた幻想の方は、発生期の市場経済における貧民の性格に関して3人が同じく根本的な誤解をしていたことを表わしていた。3人の相違の中で何よりも重要なのは、貧困者の数が時代を経るにしたがって連続的に増加していたことであった。」(第9章貧民とユートピア、P193)

「ただ一人の人物だけが、この人類に与えられた試練の意味に気づいていた。おそらくそれは、この時期の時代精神を体現した者の中で、彼だけが産業について実際的で詳細な知識をもっとともに、内面的な洞察にも目を見開いていたからであろう。すなわち、ロバート・オーウェンほど産業社会の領域の中に奥深く足を踏み入れた思想家はほかにいなかったのである。彼は、社会と国家の分離について深い理解をもっていた。ゴドウィンのように国家に対して偏見を抱くことはなく、実行可能なことだけをする機関として、すなわち社会に対する害悪を防ぐために構想された有益な介入を行いはするが、社会を組織することはしない機関として、国家を考えたのである。まったく同様に、彼は機械に対しても何ら敵意を抱かず、その中立的な性格を認めていた。国家の政治的機構も機械の技術的な仕組みも、彼の社会という存在を見る目を曇らせることはなかった。

彼は、マルサス=リカード的な制約を否定することによって、社会に対する動物主義的なアプローチを拒絶した。しかしオーウェンの思想の支柱となったのは、キリスト教批判であった。彼は、キリスト教をその「個別化」という点で、すなわち人格に対する責任を個人のみに負わせ、したがってオーウェンの目から見れば社会の現実と社会がもっている人格形成に対する絶大な影響力を否定したという点において、キリスト教を批判したのである。「個別化」に対する非難の真の意味は、人間の動機が、社会に由来するものであるという彼の主張にあった。「個別化された人間と、キリスト教において真に価値あるとされるすべてのものとが分断されてしまったため、それらが結びつくことは未来永劫にわたって不可能なのである」。オーウェンは、社会なるものの存在を発見したことにより、キリスト教を超克してさらに新たな地点をEl指そうとした。彼は、社会とは実在するものであり、したがって人間は、究極的にそれを甘受しなければならないという真実を理解した。彼の社会主義は、このような社会の現実を認識することによって到達することのできる人間意識の変革に基づいていたといえるかもしれない。彼は、次のように記述している。「人間が今まさに手に入れようとしている新しい力によってさえ、原因を取り除くことができないような悪があるとすれば、人はそれが必然的でしかも避けることのできない悪であることを知るであろうし、子どもじみた無益な不平をいわなくなるであろう」。

オーウェンは、「人間が今まさに手に入れようとしている新しい力」を過大に考えたのかもしれない。そうでなければ、ラナーク州の治安判事に対して、彼の共同体村で発見したばかりの「社会の核」から、社会を新規にそして直ちに出発させるべきだなどと提案したりしはしないだろう。このような想像力のほとばしりは天才たる人間の特権であり、そのような人間がいなければ、人類はみずからを埋解することができず、それゆえ存在することさえ不可能となってしまうのかもしれない。しかしそれよりいっそう重要なことは、彼が動かしがたい自由の限界を指摘したことである。それは、社会における悪を取り除くために必要な制限によって要請されたものである。しかし、人間が正義の理想に従って社会を転換させて初めてこの自由の限界は明確になるだろう、とオーウェンは感じていた。そのときになれば人間は、子どもじみた不平とは無縁の成熟した精神で、この自由の限界を受け入れるに違いないと考えていたのである。

ロバート・オーウェンは、1817年に、西欧人がすでに歩みだした道程について記述し、来るべき世紀の問題をまとめて結語としている。彼は、「自然的発展にゆだねられた場合」の工業によって生ずる重大な帰結を指摘した。「工業が一国の全体にまで拡散すると、その国の住民に新たな性格が付与される。そしてこの性格は個人および国民全体の幸福にとってきわめて好ましからざる原理に従って形成されるために、もしもその傾向を立法による干渉と監督によって抑制しなければ、非常に嘆かわしい永続的な害悪が生み出されることになろう」。社会の全体を利得と利潤の原理に基づいて組織化することは、甚大な影卿を与えるにちがいない。彼はそれを、人間の性格という観点から定式化した。新たな制度的体系がもたらすもっとも明らかな影響は、かつての定住国民がそれまでもっていた伝統的な基本的性格を破壊され、自尊心と規律を欠き定住することなく浮き草のように漂う、労働者と資本家に典型的に見られるような粗野で鈍感な新しいタイプの国民へと変異することであった。ここからオーウェンはさらに進んで、この過程が内包する原理は、個人と社会全体の幸福にとって好ましくないとの概括へといたる。市場制度に固有の諸傾向を、立法によって実効を与えられる意識的な社会的監督によって抑制しなければ、工業の拡大にともなって重大な害悪が生み出されるであろう。もちろん彼が慨嘆した労働者の境遇は、部分的には「給付金制度」の結果であったことは間違いない。しかし、彼が気づいた状況は基本的に都市労働者にも農村労働者にも等しく当てはまった。すなわち、「いずれの労働者も、今や彼らのぎりぎりの生存がその成功にかかるようになった工場制の導入以前にくらべて、現在は限りなく堕落し悲惨な状況におかれている」のである。ここでも彼は、所得ではなく堕落と悲惨を強調して問題の根源を衝いた。そしてこの堕落の主たる原因として、最低限の生存が工場に依存していることをやはり正しく指摘したのであった。彼は、基本的に経済的間題と見えることが実は社会的間題であるという真実を把握していたのである。たしかに経済的な観点から見ると、労働者は搾取されていた。すなわち労働者は、その労働と引き換えに受け取るべきものを正当に受け取ってはいなかった。もちろんこのことは重要ではあるが、それがすべてというわけではけっしてなかった。搾取がなければ、金銭的に見て労働者の暮らし向きは以前よりもよくなろう。しかし、個人と全体の幸福にとってまったく好ましからざる原理が、労働者の社会的環境を、その隣人を、社会におけるその立場を、その匠の技を、つまりは労働者の経済的存在がかつて埋め込まれていた自然と人間に対する諸関係を、まったく荒廃させつつあったのである。産業革命は、巨大な規模の社会的変動をもたらしたのであり、貧困の間題はこの出来事の単なる経済的な側面にすぎなかった。オーウェンは正当にも、こうした破滅的な力を抑制する法的干渉と指導がなければ、甚大にして永続的な諸悪が生ずるであろうと宣言したのであった。

しかしながら、オーウェンはこのとき、自分が要求した社会の自己防衛が、市場システムそれ自体の機能と相容れないものであることを見通してはいなかったのである。」(第10章政治経済学と社会の発見、P223~226)

「これに対してロバート・オーウェンは、人間世界の真実を知るという任務を放棄し、ハナ・モアの物語の中の惨めな主人公の現実にはありえない地位や役割の賞賛をよしとするキリスト教に背を向けた。キリスト教が新約聖書を超越する荘厳なる黙示、つまり複合社会における人間の状態に立ち向かおうとしなかったからである。誰も、ハナ・モアの誠意を疑うことはできないだろう。しかしその誠意は貧民が劣悪な状態を唯々諾々と甘受すれば、それだけますます容易に神の慰藉を得ることになるという彼女の確信をもたらしたのである。ハナ・モアは、貧民の救済と自分が深く信仰する市場社会の円滑な進行の拠り所を、ひたすら神の慰めにのみ求めたのであった。しかし、上流階級のもっとも寛大な人々の内面生活の糧となっていた中身のないキリスト教は、イギリスの大衆がそれによって社会の回復を図ろうと努力していた産業を尊ぶ創造的信仰にくらべると、まことに貧弱であった。とはいえ、資本主義には、まだ知られざる未来があったのである。」(第14章市場と人間、P308~309)

「われわれは、西欧人の意識における三つの本質的な事実と侶じられるものに言及した。すなわち、死についての認識、自由についての認識、社会についての認識である。ユダヤ人の言い伝えによれば、死の認識は旧約聖書の物語に啓示された。自由の認識は、新約聖書に記録されているイエスの教えの中で、人の唯一性の発見を通じて啓示された。そして社会の認識は、産業社会に生きることを通してわれわれに示されたのである。誰か一人の名を挙げてこの偉大な啓示の功績をその人に帰することはできないけれども、おそらくそれにもっとも近い立場にあるのはロバート・オーウェンであろう。社会についての認識が近代人の意識を構成するもっとも重要な要素なのだ。

社会の現実をどのように認識するかという問いに対するファシストの答えは、自由の公準を拒否することである。キリストが発見した個人の唯一性と人類の一体性は、ファシズムによって否定される。ここに、ファシズムの堕落傾向の根源がある。

ロバート・オーウェンは、「福音書」が社会の現実を無視していることを認識した最初の人物であった。彼は、これをキリスト教における人間の「個別化」と呼び、彼の協同的共和国においてのみ、「キリスト教において真に価値のあるものすべて」が人間の手に取り戻されるだろうと信じていたように思われる。オーウェンは、われわれがイエスの教えを通して獲得した自由が複合社会には適用しえないことを認識していた。彼の社会主義は、このような社会における人間による自由を求める要求を擁護するものだった。西欧文明におけるポスト・キリスト教の時代は、彼においてすでに始まっていた。そこでは、依然として「福音書」がわれわれの文明の基礎ではあるものの、それだけではもはや十分ではなかったのである。

かくして社会の発見は、あるときには自由の終焉を、そしてまたあるときには自由の再生を意味する。すなわちファシストは、甘んじて自由の放棄に身を任せて社会の現実である権力を賛美するが、社会主義者は、その現実を受け入れながら、それにもかかわらず自由の希求を擁護するのである。人類は成熟しつつあり、複合社会における人間存在として生きることが可能である。もう一度、ロバート・オーウェンの霊感に満ちた言薬を引用しよう。「人間が今まさに手に入れようとしている新しい力によってさえ、原因を取り除くことができないような悪があるとすれば、人はそれが必然的でしかも避けることのできない悪であることを知るであろうし、子どもじみた無益な不平をいわなくなるであろう」。

忍従は、常に人間の力と新しい希望の源泉であった。人間は死という現実を受け入れ、そのうえにみずからの肉体的な生命の意味を築いた。人間は、自身がやがて死すべき存在であり、生きることは時に死よりも苦しいという真実を甘んじて認めながら、そのうえにみずからの自由を打ち立てたのである。現代では、人間は過去の自由の終焉を意味する社会の現実に耐えつつそれを受け入れている。しかしこの場合にもまた、生命は忍従の果てによみがえる。忍耐強く社会の現実を受け入れれば、人間は除去しうるあらゆる邪悪と隷属を排除する不屈の勇気と力を与えられるだろう。また人間が万人のために溢れるばかりの豊かな自由を創造するという自己の使命に忠実であるかぎり、権力と計画化が人間の意に背き、それらを道具として使いながら打ち立てようとしていた自由を破壊するという事態を恐れる必要はない。これが、複合社会における自由の意味であり、この使命の重要性が、われわれの必要とするすべての確信を与えてくれるのである。」(第21章複合社会における自由、P466~468)

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