絶望を希望に変える経済学-社会の重大問題をどう解決するか-

チンパンジー

「チンパンジーの笑顔」雑読雑感 その18

アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ著、2020年4月、日経BP・日本経済新聞出版本部、2,640円

この本は、「2019年ノーベル経済学賞受賞者による、受賞第一作ー。いま、あらゆる国で、議論の膠着化が見られる。多くの政治指導者が怒りを煽り、不信感を蔓延させ、二極化を深刻にして、建設的な行動を起こさず、課題が放置されるという悪循環が起きている。移民、貿易、成長、不平等、環境といった重要な経済問題に関する議論はどんどんおかしな方向に進み、富裕国の問題は、発展途上国の問題と気味悪いほど似てきた。経済成長から取り残された人々、拡大する不平等、政府に対する不信、分裂する社会と政治 この現代の危機において、まともな「よい経済学」には何ができるのだろうか? よりよい世界にするために、経済学にできることを真っ正面から間いかける、希望の書。」(表紙扉より)であるという。

著者の二人の略歴は、次の通り。
アビジット・V・バナジー MITフォード財団国際記念教授(経済学)。2019年、ノーベル経済学賞を受賞。コルカタ大学、ジャワハラール・ネルー大学卒。1988年にハーバード大学にてPhD取得(経済学)。2009年インフォシス賞受賞。2011年フォーリン・ポリシー誌が選ぶ世界の思想家100人に選出される。2012年には国連事務総長直轄の「ポスト2015年開発アジュンダに関するハイレペル・パネル」の委員に任命される。専門は開発経済学と経済理論。配偶者でもあるデュフロと執筆した『貧乏人の経済学』(邦訳:みすず書房)でジェラルド・ローブ賞、ゴールドマン・サックスとFTが選ぶプック・オブ・ザ・イヤーを受賞。
エステル・デュフロ MITアブドウル・ラティフ・ジャミール記念教授(貧困削減および開発経済学担当)。2019年、ノーベル経済学賞を史上最年少で受賞。フランス出身。パリ高等師範学校卒業後、1999年にMITにてPhD取得(経済学)。2009年には「天才賞」として知られるマッカーサー・フエローシップを、2010年には40歳以下の経済学者に贈られるジョン・ペイツ・クラーク賞を受賞。2013年ダン・デービッド賞、2014年インフオシス賞、2015年アストウリアス皇太子賞など受賞多数。著書に『貧乏人の経済学』『貧困と闘う知』(邦訳;みすず書房)がある。」(表紙裏扉より)

開発経済と貧困の経済が専門らしく、全世界の事例をふんだんに使用して現在の状況を解説していく。まるで小説を読むかのようで、読者を飽きさせない。一気に読んでしまった。この本でも新自由主義の危険性と協同の重要性が説かれている。
例によって、印象に残った記述を抜粋しておきます。

「最近の経済学研究の成果には、目を見張るような有益なものがじつに多い。テレビに登場する「エコノミスト」の軽々しい説明や高校の教科書の古くさい記述しか知らない人は、きっと驚くにちがいない。こうした最新の成果は、重要な問題の議論に新しい光を投げかけてくれると信じる。だが不幸なことに、経済学者の発言に注意深く耳を傾けるほど彼らを信用している人はあまりいない。イギリスの欧州連合(EU)離脱の可否を問う国民投票では、イギリスの経済学者たちは、ブレグジットがいかに不利益をもたらすか声を」呪らして直前まで説き続けた。だが馬の耳に念仏だと感じたという。彼らの感触は正しかった。誰も経済学者の言うことなどに注意を払わないのである。インターネットベースの市場調査会社ューガブ[YouGov]が2017年初めに行った世論調査では、興味深い結果が出ている。「以下の職業の人たちがそれぞれ自分の専門分野についての意見を述べた場合、あなたは誰の意見をいちばん信用しますか?」という質問に対して、1位は看護師だった。回答者の84%が看護師を信用した。最下位は政治家で、5%である(ただし地方議会議員はいくらかましで、20%だった)。経済学者は下から2番目で、信用してくれたのは25%だけだ。気象予報士のほうがはるかに上で、経済学者の二倍である。」(Chapter 1経済学が信頼を取り戻すために、P12)

「なぜ経済学者が信用されないのか、原因を理解する必要があるだろう。答のーつは、悪い経済学が大手を振ってまかり通っていることである。公開討論などで「エコノミスト」を自称する人々の多くは、IGMパネルの経済学者とはまったくちがう。テレビなどのメディアにたびたび登場するエコノミスト、たとえばX銀行のチーフ・エコノミストだのY証券のシニア・エコノミストといった人たちは、もちろん例外はいるものの、多くは自社の経済的利益を代表して発言しているのである。だから不都合な証拠(エビデンス)は無視してよいと考えがちだ。しかも全力で市場の楽観主義を煽ろうとする傾向が強い。一般の人々がこの手のエコノミストに同調しやすいのは、このためである。困ったことに、彼らの外見(スーツを着てネクタイを締めている)や話し方(専門用語を多用する)からは、アカデミックな経済学者との見分けがつきにくい。おそらく最も大きなちがいは、エコノミストを自称する人たちが、自信たっぷりに断言したり予言したりしたがることだろう。おまけに、そのせいで権威があるように見えてしまう。だが実際には、予言に関する実績はじつにお粗末だ。そもそも経済の将来を予想することはほとんど不可能なのである。だからアカデミックな経済学者は慎重に予想を避ける。」(Chapter 1経済学が信頼を取り戻すために、P15)

「自分とはちがう人種、宗教、民族、さらにはちがう性に対する剥き出しの敵意をあからさまに表現する-これが、世界中で台頭するポピュリスト政治家の常套手段だ。アメリカからハンガリー、イタリアからインドにいたるまで、人種差別や民族的偏見と大差ない発言を繰り返し、選挙で公約に掲げるような政治家が跳梁践尾している。2016年のアメリカ大統領選挙では、自分は何よりもまず白人であるというアイデンティティが、経済に対する不安などよりも、ドナルド・トランプを強力に支持する理由になった。」(Chapter 4好きなもの・欲しいもの・必要なもの、P144)

「フォーク定理は、村の人々が助け合いの精神で結ばれているように見える構図にも利己的な理由が隠されていることを示す。村人たちが困った隣人を助けるのは、将来自分が困ったときに助けてもらえるだろうと期待する、という理由もいくらかはあるだろう。規範を維持するために、助けの手を差し伸べなかった者は村の助け合いの輪から排除されるという罰を受ける。」(Chapter 4好きなもの・欲しいもの・必要なもの、P153)

「お互いの言うことに耳を貸さなくなったら、民主主義は意味を失い、選挙は次第に部族投票のような様相を呈して来るだろう。みんなが自分の部族に忠誠を尽くし、政治的主張を注意深く聞いて判断するのではなく、とにかく同じ部族の候補者に票を投じるようになる。そうなれば勝利するのは最大規模の部族の代表者または部族の取りまとめに成功した指導者だ。たとえそれが倫理的に疑わしい人物であっても、である。いったん権力を掌握してしまえば、支配者は自分の支持者たちの経済的・社会的便益にすら配慮する必要がない。なぜなら、有権者は他の部族に優位を奪われることを極端に恐れるので、どんなにひどい支配者でも自分の部族出身なら従うからだ。そのことを知っている支配者は、国民の間に恐怖を植え付ける。最悪の場合にはメディアを支配下に置いて反対意見を言えないようにしてしまう。ハンガリーのオルバーン・ビクトル首相がまさにそうだ。ほかにもこの種の政治指導者は少なからずいる。」(Chapter 4好きなもの・欲しいもの・必要なもの、P199)

「たとえ有権者が人種や民族や宗教に基づいて投票するとしても、いやそれどころか人種差別を唱える人物に投票するとしても、その主張に熱烈に賛同しているわけではない。政治家が自分の都合のいいときに民族や人種のカードを切ることを、有権者はとっくに承知している。それでもそういう政治家に票を投じるのは、有権者が政治にすっかり白けていて、誰が議員になろうとたいしてちがいはないと諦めているからだ。このような状況では、有権者は自分と同じ集団に属す同類に投票する可能性が高くなる。つまり人種や民族に基づく投票態度は、無関心の表れに過ぎないとも言える。」(Chapter 4好きなもの・欲しいもの・必要なもの、P212)

「ここから、二つの結論を引き出すことができる。 一つ目は、取り葱かれたように成長をめざすのはやめるべきだということだ。レーガン=サッチャー時代の成長信仰以来、その後の大統領も成長の必要性をつゆ疑わなかった。成長優先の姿勢が経済に残した傷跡は大きい。成長の収穫を一握りのエリートが刈り取ってしまうとすれば、成長はむしろ社会の災厄を招くだけである(現にいま私たちはそれを経験している)。すでに述べたように、成長の名を借りた政策はどれも疑ってかかるほうがいい。成長の恩恵がいずれ貧困層にも回ってくるといった偽りの政策である可能性が高いからだ。成長は少数の幸運な人々に恩恵をもたらすだけだとすれば、そのような政策がうまくいくと考えることのほうを恐れるべきである。
二つ目は、この不平等な世界で人々が単に生き延びるだけでなく尊厳を持って生きて行けるような政策をいますぐ設計しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう、ということだ。そのような効果的な社会政策を設計し、必要な予算を確保することこそ、現在の喫緊の課題である。」(Chanter 7不平等はなぜ拡大したか、P376~377)

「市場がつねに公正な結果をもたらすとか、万人が受け入れられる結果を実現すると期待するのはまちがいだ。それどころか、市場がつねに効率的であるとも言いがたい-本書では繰り返しこう主張してきた。たとえば硬直的な経済においては、不利益を被った人々を助けるために、どうしても政府の介入が必要になるときがある。ただし介入に際しては、人々が誇りを持って生きていけるようにすることが大切だ。不平等と勝者総取りが蔓延する現在の世界では貧富の差は拡大する一方であり、市場が社会にもたらす結果を漫然と放置していたら、取り返しのつかないことになってしまうだろう。すでに述べたように、所得と富の分布における最上位層との格差を解消するために租税が活用されている。だが、1%の最富裕層を消滅させることが社会政策の目的ではない。残り99%をどう救うかを考えなければならない。」(Chapter 8政府には何ができるか、P179)

「独力で人生の意味を見出し、生き甲斐を構築することはそう簡単ではないようだ。やはり大方の人は労働環境が形成する規律を必要とする。おそらくそこに何らかの意義を見出しているのだろうし、それがあるから余暇時間の重要性が増すのだろう。人々がロボットによる自動化を懸念する理由はこのあたりにもありそうだ。」(Chapter 9救済と尊厳のはざまで、P431)

「ある意味で、ョーロッパでは共通農業政策(CAP)がその役割を果たしていると言える。経済学者はCAPを毛嫌いする。というのも、ョーロッパの農家は他の大勢を犠牲にして潤沢な補助金を受け取っているからだ。だがCAPを非難する学者は、多くの農家の廃業を防いでいるからこそ、ヨーロッパの田舎に活気があり、緑が豊かであることを忘れている。昔は農家向けの補助は生産量に比例していたため、農家は過耕作に走り、土地が荒れて風景も荒廃した。だが2005~06年に補助金が生産量と連動しなくなり、環境保全や動物の幸福が重視されるようになった結果、耕作や品種改良に工夫を凝らす小さな農家も生き延びられるようになる。おかげで多くの人が高品質な農産物や美しい風景を楽しめるようになった。豊かな食と風物は、ョーロッパの多くの人々が守り伝えるべきだと考えるものであり、人々の生活の質やヨーロッパらしさの価値に深く寄与すると言えよう。農業生産を集中化し、ひなびた農家を倉庫にしたら、フランスのGDPは増えるだろうか。たぶん。だがそれで生活満足度が高まるかと言えば、答はおそらくノーだ。」(Chapter 9救済と尊厳のはぎまで、P436)

「政策というものはやはり強力だ。政府には大きな善を成し遂げる力がある一方で、深刻な害をもたらす力もある。このことは、大規模な民間援助や寄付などにも当てはまる。これらの政策の多くは、よい経済学と悪い経済学(広くは社会科学)の助けを借りて策定された。社会科学者は多くの人々が気づくよりはるか前から、ソ連型統制経済のばかげた野心を批判し、インドや中国には自由企業制を導入すべきだと主張し、環境破壊の危険性を訴え、ネットワークの威力を見抜いていた。抗レトロウィルス薬を発展途上国に提供して何百万人もの命を救った賢明な篤志家は、よい社会科学を実践したと言えるだろう。よい経済学は無知とイデオロギーに打ち克ち、防虫剤処理を施した蚊帳をアフリカで売るのではなく無償で配布させることに成功し、マラリアで死ぬ子供の数を半分に減らした。一方、悪い経済学は富裕層への減税を支持し、福祉予算を削らせ、政府は無能なうえに腐敗しているから何事にも介入すべきでないと主張し、貧乏人は怠け者だと断じて、現在の爆発的な不平等の拡大と怒りと無気力の蔓延を招いた。視野の狭い経済学によれば、貿易は万人にとってよいことで、あらゆる国で成長が加速するという。あとは個人のがんばりの問題であり、多少の痛みはやむを得ないらしい。世界中に広がった不平等とそれに伴う社会の分断、そして差し追る環境危機を放置していたら、取り返しのつかない地点を越えかねないことを見落としているのである。(Conclusionよい経済学と悪い経済学、P466)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA